風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第204段

40日間、日本滞在(その12)

 京都

 京都に着いたのは、朝9時半を回った頃であった。

 京都駅から徒歩で、東本願寺まで、歩く。

 「御影堂門」をくぐり、「御影堂」に向かう。

 そして、「御影堂」に上がる。

 「御影堂」の中は、来るたび、何時も人は、まばらであった。

今回はというと少し、賑わっていた。

 私と伯は、「宗祖、親鸞の座像」の正面に座った。

 前を見つめ、合掌した。

 ここには、私の家族である、おやじ、おふくろ、4番目の兄、そして、生まれて間もない間に逝ってしまった姉が2人、「須弥壇収骨」されいる。

 1番上の兄は、56歳で逝ってしまったが、ここにはいない。

 大阪のカトリック系の女学院に勤務していて、カトリックを信仰していた。

 また、3番目の兄のことは、知らない。

 

 何時もより、賑やかだったのは、私たちが到着する前に、50人ほどの幼稚園児が正面にきちんと並び、正座していた。

 そして、10時になると、いっせいに「お経さん」を唱え始めた。

 私は、びっくりした。

が、可愛い声に紛れ、小さな声で一緒に「お経さん」を唱え始めた。

ところが、私は、途中までしか知らない。

幼稚園児達は、すらすらと、「お経さん」を唱えて行く。 

きっと、東本願寺の近くに、仏教系の幼稚園があるのであろう。

可愛らしい声で、最後まで見事に唱え終えた。

そして、お坊さんの説教を、静かに聞き始めた。

きっと、良い子に違いない・・・。

お守りを買うつもりで、案内所に行った。東本願寺には、お守りはなかった。

まあ、とにかくお参りが出来、一安心であった。

永くなるので、少し先を急ごう・・・。

太秦の映画村に行った。

ここは、私は初めてであったが、伯が日本に働きに来てすぐに、友人と一緒に来た想い出の場所であった。

伯は、絵の題材に、ここを選んだ。

伯は、あちらこちら、カメラにおさめていた。

映画が好きなキヨカズのために、「七人の侍」などのポスターを買いたいと思っていた。

しかし、売られてはいなかった。

ポスターは、沢山貼られていたので、1枚、1枚、カメラにおさめ、キヨカズへのお土産にした。

くるくると、何べんも同じところを廻り、カメラにおさめていたら、3時を過ぎていた。

急いでJRで京都駅まで行った。

そして、どの電車に乗ったらよいか、聞きながら、「京都駅」からJRで「山科」、地下鉄に乗り継いで「醍醐」まで。

ここが、今日の最大の目的地であった。

「醍醐」に着いた。

出口が2つある。

「有人と無人がるから、有人のほうの出口から出ること。」

間違いない、有人の出口だ!

切符を読取機に入れ、改札を出る。

左の方、10メートルほど先に待っていてくれた。

淡いベジュのハンチング帽子を冠り、両手を腰の後ろで組み、顔を少し右に傾けて、笑顔で、こちらを見ていた。

このしぐさは、50年目の彼がしていたしぐさそのものであった。

時は流れても、若き日のしぐさは、残っていた。

足早に、彼のところまで歩み寄った。

「健誠君、久しぶり、(出向かい)ありがとう」

そして、伯を紹介した。

50年ぶりの再会であった。

感激、そして、笑顔であった。

健誠君は、わたしと同郷、同年で、高校まで同じ学校に通った仲である。

1度も同じクラスになったことがなかったが、想い出深い友である。

日本に戻る前に、メールで「京都に遊びに来ないか。案内するよ。何泊でも止まって行きな・」と連絡してきてくれていた。

お言葉に甘え、伯とお世話になることにしたにであった。

健誠君の車で、ご自宅まで行った。

「醍醐」の駅から、5分ほどであった。

5時少し廻っていて、食事には少し早い時間であった。

健誠君の住んでいるところから、少し離れているだけの「醍醐寺」に散歩に行くことにした。

3人で歩く「醍醐寺」の参道は広く、一直線に長く、静寂を保ち、心を和ませてくれた。

健誠君は、海外旅行をする機会が多いが、家にいる時には、この「醍醐寺」の参道を朝、散歩するとのことであった。

1日の始まりの朝、こんな素晴らしいところから始めることが出来る。

羨ましい限りであった。

 参道の端に植えられた、大きな「枝垂れ桜」が参道を覆っていた。

 桜の咲く頃に、歩いたら、きっと、「桜の世界」に入りこんでいくように思えた。

 夕食は、近くの「王将」。

 伯と私が好きな店であった。

 伯は「焼飯」、私は「ラーメン」。

 何時もの、メニューを注文した。

美味しかった。

 健誠君の自宅。

 食堂で健誠君を前に3人で腰を掛け、ホッと一息。

 先ずは、ビールで再会を祝して、乾杯!

 京都の地酒、古酒を注ぐ。

 一口飲んだ。

 「日本酒は、おいしい・・・。」

 健誠君と話がはずむ。

 ブラジルのこと。

 健誠君の海外旅行のこと。

 そして、中学時代、高校時代の卒業アルバム。

 健誠君は、私と会うのを機会に久し振りにアルバムを開いたといっていた。

 私なんぞは、何時開いたのか、憶えていない。

 懐かしい顔が映っている。

 ぼうず頭にオカッパ頭。

 そして、高校のアルバムを開いた。

 ページをめくっていくと、健誠君、私、そしてブラジルで「びっくり再会」した角田君がいる。

 どんどん、めくっていくと、修学旅行、体育祭の写真が出てきた。

 そうなんです。

 体育祭の想い出なんです。

 1枚の体育祭の写真は、体育祭の閉会式の写真なんです。

 そこに写っているのは、整列し、先生の訓示を聞いている学生の真ん中に「くす玉」が写っていた。

 その「くす玉」の中には、生きた「鶏」が1羽、入っていたのです。

 皆を驚かすための仕掛けであった。

 閉会式が終わり、いざ「くす玉」の紐を引っぱった。 

 割れない。

 「くす玉」が割れない。

 咄嗟に、1人が「くす玉」が付いている竹を登り始めた。

 見る見る間、「くす玉」の紐にたどり着き、

引っ張ると同時に、竹が折れた。

 彼は、地面に一直線。

 落ちたのであった。

 そして、怪我。

 友のバイク(18歳で免許が貰えた)で病院へ、直行・・・。

 病院行きは、誰。

 それは、まさしく健誠君であった。

 そんな、やんちゃな健誠君。

 中学時代から、高校卒業まで、トップの座を1度も明け渡したことがない。

 でも、何処で勉強しているか、ガリ勉タイプではない。

 軟弱な私に声をかけてくれていた。

 健誠君と、50年ぶりの再会。

 年賀状だけの付き合いになっていたのが、

健誠君のメールで、心温まる1夜になった。

 古酒に酔い、健誠君も私も伯も、素晴らしい時を持つことが出来た。

 書けば、長い。

 また、何時か、きっと、こんな時が持てる事を・・・。

 そして、次の日、健誠君の車で、「南禅寺」「清水寺」などを案内してもらった。

 駐車場に、車を止め、健誠君、伯、そして私の3人、二寧坂を歩き、三寧坂を登る。

 そして、「清水」。

 軒先へ・・・、軒先には、行けない。

 爺さん、下を見るのが、こ わ い。

 恐怖の「清水の舞台」を過ぎ、帰り道、土産物屋に、立ち寄った。

 そんなに、あれや、これや買いたいわけではなかった。

 三寧坂の通りから、土産物屋を見ると、一刀彫りの「ふくろう」が見えた。

 「あの頃」伯と行った高山で売られているものと同じで、私は今も大切にしている物である。

 これにしよう。

 私が持っている一刀彫りの「ふくろう」を2つ買った。

 

 歩きながら、もうすぐ終わる。

 この時間が、もっと、永く続くことができたら・・・。

 そう、思った。

 

 別れは、京都駅。

 先ほど買った「ふくろう」を1つ、再会の記念に健誠君に渡した。

 ありがとう・・・健誠君。

       美しい 京都の寺々 見て歩く

              懐かしき友 私の横に

 

太秦映画村には、懐かしい映画のポスターが刑事されていた。

懐かしい友と一緒に清水寺に向かう。

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