風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第198段
40日間、日本滞在(その6)
月曜日になり、私の勤めていた会社が出勤日となった。
東浦の街中を走るバス、「うらら」に乗り、出かけた。
「うらら」は、刈谷豊田総合病院経由でJR刈谷駅まで行く路線がある。
「あの頃」、私が刈谷豊田総合病院に入院していた時に、仕事を終えた伯が寒い中を毎日乗って病院に来てくれたバスである。
そのバスに乗り、伯と2人で懐かしい、会社の事務所に向かうことが出来た。
そして、刈谷駅から名鉄線で吉浜駅まで。あとは徒歩で15分くらいのところに事務所がある。
ブラジルで受けとったメールでは、事務所を新しく建てたとの情報があり、楽しみにしていた。
事務所まで行くと、2階建の新しい建物が眼に入り、そこが新しい事務所であることがすぐにわかった。
以前の事務所は、新しい事務所と道を挟んだ向かい側に建っていた。
その事務所は、従業員の数にしては広すぎる大きさであったが、新しい事務所は、2階建で機能的と感じた。
旧事務所跡は、賃貸住宅にするための新築工事が行われていた。
私がいる頃とは様変わりで、会社の事業は拡張されていた。
伯と2人で事務所の扉を開けた。
同僚は仕事で外に出ていたが、同僚が1人と事務員さんが事務所にいた。
懐かしく、「久しぶり」の挨拶をしながら、握手をした。
社長は、来客中で2階にみえ、すぐには再会できなかった。
何時も私にメールをくれる事務員の佳枝さんは、せわしく2階と1階を行き来していた。
挨拶はかわしたが、ゆっくりと話はできない様子であった。
5分ほどで来客が帰られ、伯と私は、2階へ案内された。
社長との再会であった。
社長と私は、お互いに「やあ、やあ」という程度の軽い挨拶であった。
社長は、昔からきさくな人物であるから、この程度の挨拶の方が、社長と私の間では、ここち良いのである。
伯は、私の隣で少し、緊張していた。
伯も20年余り、お世話になった会社である。
伯には、再会が恥ずかしかったかもしれない。
それでも、会話に参加し、伯は笑顔であった。
軽い挨拶の後、私が渡伯し、日本から送金したお金が口座になかなかはいらなかった時に、私の給料明細等を即座に作成し、郵送していただいたことへのお礼をした。
そして、雑談。
私が日本にいた頃の想い出話、ブラジルのこと、そして会社の現在の状況等をお聞きした。
頑張っておられる様子が判った。
発展を祈るばかりである。
社長にお願いをしていた件があった。
私が日本にいる間、車を借りる件であった。
日本に来る前にブラジルからメールで、「日本にいる間、空いている車がありましたら、安い借り賃で1台貸して戴きたい。」とお願いし、社長から承諾の返事をもらっていた。
日本滞在中に、車があるとないとでは、その行動範囲、行動状況は全く変わってしまう。
滞在住居と同じに、滞在中には最重要物件である。
そうではあるが、私は、こんな重要な事柄を、社長以外にはお願いしていない。
それは、社長なら必ず貸していただけるという確信があったからであった。
私が思う、そのとおりになったのである。
社長は、私が知っている誰よりも「めんどうみ」がよい人物である。
いま、保険会社のCMで「めんどうみ」が登場しているが、そんなの社長の足元にもおよばない。
実に、人の道で「めんどうみ」がよい。
良いというより、良すぎるのである。
外見は、そのようには見えず、そこそこ、厳ついところはあるが・・・。
だから、私のような「はんぱ物」でも勤めることができたのである
私の生涯で、最もお世話になった人である。
感謝は忘れることはない。
一緒に昼食をし、お礼を言い、車を借りた。
借賃は、無料であった。
帰り路でプリペイドの携帯電話を、伯と私の物で2台契約した。
携帯電話の本体は、「あの頃」使っていた物である。
アパートに帰り、友達に私がもらった新しい携帯電話の番号を送信した。
日本滞在の、環境は整った・・・。
再会す 懐かし姿 そこにあり
されどお仕事 声かけられず
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