風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第173段

勝てよ、日本!

 17日、火曜日は、ブラジル対メキシコ戦であった。

 何時もとおりに伯は、朝早く、学校に出かけて行った。

 そして、昼の12時半に帰宅した。

 いつも、学校から帰宅するのは、1時半過ぎである。

 が、ブラジルが16時から試合をする。

 市役所、会社等は、半日で仕事を切り上げるとのことで、伯の行っている学校も、午前中に終了して、早く帰ることになったようだった。

 やはり、地下鉄、バスが込み合い、道路は渋滞になった。

 サンパウロでは、300キロも渋滞していると、テレビで報道した。

 伯は、早く帰ってきて良かったと思った。

 今度の月曜日にまた、ブラジルが試合をする。

 伯は、午前中に学校、午後から絵画教室がある。

 午後の絵画教室は、休んだ方が良いと、話をした。

 街中の混乱は、デモだけでなく、ブラジルが試合をする日には、交通をも混乱している。

 まだまだ、続くことが決定的であり、伯の学校も、変則になるようだ。

 昨日、木曜日は、日本対ギリシャの試合があった。

 この日、ジンタのお姉さんと弟が、ジンタに用事があり、たまたま、マチダ家を訪れた。

その用事が済んだのが、19時近くになり、日本の試合が始まる。

 お姉さんと弟は、サンパウロの自宅まで戻るに、1時間以上かかってしまう。

 マチダ家で一緒にテレビで日本戦を観戦することになった。

 ジンタは、サッカー好きで、いつもはコリンチャンスというチームを応援し、自ら、フッチボールクラブに入り、練習や試合をしている。

 お母さん、テテ、ミユキ、伯も一緒に日本戦を観戦した。

 この日は、ビールとピーナッツではなく、ポップコーンとコーヒーであった。

 お母さん、テテと伯と4人で試合を見ていた時は、余り、大きな声出さないで、どちらかと言えば、静かに観戦していた。

 それが、ジンタ兄弟が参加し、大きな声、熱狂的な応援に変わった。

 日本が、相手のゴールポストの付近まで、ボールを回すと、「おおお・・・。」

 シュートをすると、「あああ・・・。」

 足をバタバタさせ、床を叩く。

 しかし、最後まで「やった!」の声は、なかった。

 この試合は、勝って欲しかった。

 前回の試合より、アグレッシブであった。

 何処が、だめであったのか・・・?

 前段で、地中深く隠れている球根を掘った時には、それなりの「快感」を感じると書いたが、今度は、「イライラ」が残ってしまっている。

 その「イライラ」を解消するために、私の通った高校の自慢をさせてください。

 私の通った高校のサッカー部は、国体で2年連続の優勝をし、高校総体では、準優勝を1回している。

 ユニフォームは、知る人ぞ知る「赤ダスキ」である。

 私が1年生の時には、国体、高校総体のいずれにも出場している。

 3年生のサッカー部のキャップテンは、私の家と50メートルも離れていないところに住んでいた竹之内先輩で、背丈は学校中で1番高かった。

 国体の壮行会の挨拶で、「頑張って、勝ってきます。」と、力強く宣言した。

 1回戦の相手は、かの有名な釜本邦茂氏のいる「山城高校」であった。

 我が母校は、1回戦敗退であった。

 そして、高校総体の壮行会での竹之内先輩の挨拶は「今度こそ、頑張って勝ってきます。」であった。

 相手は、山梨県の強豪「韮崎高校」で、ここでも、初戦敗退を喫してしまった・・・。

 

 また、硬式野球部は、春の選抜高校野球大会に出場している。

 津田恒実氏率いる、山口県の南陽工業と対戦し、初戦敗退であった。

 この甲子園出場は、私の卒業後のことで、私が高校在学中の野球部は、超弱体で、試合には、人数不足で、部員以外の人員を集め、試合をしていて、1回戦コールド負けのチームであった。

 それが、甲子園に出場するまでになった。

 その原因は、各地で盛んになった少年野球の力が大きいと感ずる。

 サッカー部の全国制覇は、もう、遠い過去の事である。

また、覇者の1ページに名を連ねて欲しいと思う。

 1回戦敗退の事ばかりであるが、私が誇らしく思うのは、愛知県の高校では、私学の全国大会出場が多く、サッカー部と野球部の2つの部活が全国大会に出場した県立高校は、我が母校しかない。

 このことを、誇らしく思う。

 「今、戦いの時は来ぬ、勝てよ、刈高、刈高、我らが刈高」

 これは、わが母校の応援歌の一節である。

 今迄幾度も、折に触れ、奮い立たせてくれた。

 「勝てよ、日本、日本、我らが日本」


       夢捨てず 立ちむかいしは 3戦目

             優勝の2文字 忘るなかれ

 

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