風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第129段
風につつまれて
今日、平成26年に2月5日、六八歳。
明治用水の引き込み水路で、真っ裸でおちんちんを空に向け、太陽とお話していた「ボウズ」は、早いものでもう「草取りジジイ」になっている。
時の移りは、そんなにも早いものかと感ずる。
半面、遥か彼方から、陽炎と共に、ゆらり、ゆらり、そして、ゆっくりと移り変わっていくようにも感ずる。
心の中の「思い出カルタ」は、余りにも沢山になっている。
大宇宙は、私の「思い出カルタ」を入れる場所を、まだ沢山、入れることができるようにしてくれているだろうか?
いっそうのこと、楽しかった「思い出カルタ」嬉しかった「思い出カルタ」、よい「思い出カルタ」だけを残し、他の嫌な「思い出カルタ」を心の外にはきだしてしまおう!
そうすれば、まだまだ、「思い出カルタ」をしまっておく場所が、心の中に沢山出来る。
そうしよう。
そして、これからの新しい「思い出カルタ」を入れていこう。
むろん、よい「思い出カルタ」だけを・・・。
大宇宙でも、気が付くまいに・・・。
さて、1月31日に戻ろう。
朝、6時半、リベルダージ自動車学校に伯と2人で来ていた。
自動車免許証取得技能試験であった。
受験者は10名。
3台の乗用車に乗り込み、試験コースのあるアルメニアまで移動した。
試験コースに到着すると、他の自動車学校のからの受験者が来ていた。
受付順で、私の番号は、「108番」であった。
最終的には、受験者は200名余りになっていた。
私の番号の「108」は、「煩悩を消して受験せよ。」と言っているように思えた。
試験コースは、住宅地で、樹木が多く、交通量も少ない静かな処であった。
このような、試験コースがサンパウロには、あちらこちらに用意されているようである。
全長600メートルほどの矩形の道路を使い、右折を4回すると、スタート位置に戻るという、簡単な街中のコースである。
その中に、「急坂」があり、「止まれ」の標識と「速度制限30キロ」の標識、そして、急坂の真ん中に、「路上駐車」をさせる場所が設置されている。
そこを、1周するだけの試験であった。
次々と、受験者がスタートしていった。
初めの交差点で、ウインカーを出さずに右折する者、一旦停止をしない者、エンストしている者など、様々な様子であった。
スタートでは、受験者が運転していたが、帰りに交差点を曲がって現れた時は、試験官が運転している車もあった。
だめだったのか・・・。
私の番が近づいてきた。
9時を少し回った頃であった。
運転席に座った。
後部の座席に伯が同乗して、通訳をする約束であったが、伯の姿はない。
同乗してはいけないとのこと。
ここは、ブラジルである。
何も、文句は言わない。
シートベルト、ミラーの位置など確認して、出発した。
助手席で、試験官がポルトガル語で話していた。
私がポルトガル語を話せないことは伝えてもらっていた。
通訳を同乗させれば良いのに・・・。
もう、何を話していても関係ない。
走ってしまえ!
木陰のコースで、心地よい風に包まれての運転であった。
ウインカー、一旦停止、ポルトガル語なんぞ知らなくても、走ってしまえ!
急坂の路上駐車は、棒が等間隔に立っていた。
そこへバックで車を入れ込み、駐車させた。
「よっこいしょ!入ったよ!」
そして、また発進。
心地よい風に包まれ、快調!快調・・・。
スタートラインに到着。
試験官が、採点用紙にチェックマークを記入し、私に渡す。
私が「オブリガード」と言ったら、「さようなら」だって・・・。
大成功。
計画してから、5ヶ月が経ち、やっと「エピローグ」となった。
今日は、おふくろの三回忌。
風はおふくろ、「ありがとう」
免許証は、後日、自動車学校から電話があり、交通局に取りに行くことになった。
2~3週間かかるようだ。
もう、問題はないと思う。
「スミマセン、ポルトガル語のペーパーテストを受けてください。」なんて、言ってこないだろうね。
なんたって、ここは、ブラジルなんです。
今日は、おふくろの三回忌で、食事をしてから、東本願寺に供養のお願いに上がる予定をしていた。
食事は、リベルダージのいつものレストランで取ることにした。
「暑いから生ものに注意してね。」と伯が私に言ったが、「サーモンのにぎり寿司」があったので、二貫を皿に乗せた。
他には生ものは取らなかった。
試験が終わり、ほっとしていたこともあり、ゆったりとした気持で食事が出来た。
東本願寺に行く前に、食事場所から500メートルくらい離れている、日本文化協会に寄り、露天商の事を聞くことにした。
3月に文化協会が大きなバザーを開くので、そこに出店をしたいということである。
事務手続きが終わり、帰り道のこと。
胃のあたりが急に痛み出した。
今までに経験したことがある狭心症や、胆石の時の痛みとは違う感じであった。
リベルダージの地下鉄駅に着いたが、痛みが取れない。
だんだんと痛みが増してきた。
伯と話をし、東本願寺は行かないことにした。
帰りの地下鉄に乗った。
アルメニアまで、5区間。
座っているが、胃が固まってしまった感じで、胃を右手でおさえ、頭を下げていた。
アルメニアで降りたが、目の前が霞んで人が歩いている様子など、ぼやけてみえるようになってきた。
プラットホームの椅子に座った。
これが、「めまい」というやつなのか?
「めまい」になったことがないので、判らない。
「痛い、痛い、痛い・・・。」
伯がテテに電話してくれ、迎えに来てくれることになった。
伯が、病院に行くか、聞いてきたが、どうしたものか、判断できない。
様子を見ると、言っておいた。
テテが到着、同乗して、後部座席に寝転がった。
走りだした。
見えるのは、夕暮れの空だけ。
痛みは取れない。
とりあえず、高速道路を一目散に、マチダ家に向かった。
治らない。
「伯、悪いけど・・・病院へ行ってくれ・・・。」
マチダ家から2キロほど離れて立っている大きな病院で、無料で診察してくれるところである。
着くやいなや、吐き気をもよおし、路端で嘔吐してしまった。
車いすを用意してもらった。
急患扱いであった。
順番を待たずに、受付が終わると、すぐに診察であった。
心臓のカテーテルや、胆石摘出の手術をしていること、先ほど、嘔吐したことなどを、伯は話してくれた。
テテが家から持ってきてくれた、現在、私が服用している薬を見せた。
「食中毒です。生ものに注意してください。」
「点滴をします。」
点滴の順番を待つことになった。
食中毒なの?
あの、「サーモンか?」
だとしたら、保健所に連絡して、店の点検などしなければ・・・。
そんなことはしないようだ。
「あなた、食べた方が悪いのよ。」なんて言っているように取れる。
伯が言った「生ものに注意して。」との言葉を守っていれば、こんな事にはならなかったのである。
先日の「スリ事件」そして今日の「食中毒事件」は、伯の言うことを、私がしっかりと理解していれば、起きなかった事なのだ。
そういえば、近頃、スーパーマーケットでは、生魚がめっぽう少なく、今迄、生魚が並んでいた場所には、魚の缶詰がうず高く積まれ、生魚がないのである。
夏の暑さのために、鮮度を保つのが難しいようである。
私は、まだまだ「日ブラ人」
点滴を終え、帰宅時には、嘔吐したのが良かったのか、痛みはなくなった。
なにも食べずに、ベッドに入った。
それ以後は、何とも無くなっている。
嬉しいやら、痛いやらの1日であった。
おふくろさん、供養に行けず、ごめんなさい。
3月のお彼岸に行くことにしておくよ。
5ヶ月の なんやかんやの 免許証
運転3分 エピローグなり
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