風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第128段

少年期の思い出

 おふくろの事を書いてきましたが、私の少年期の思い出の中で、おふくろの生家で過ごした、楽しいかった時間の数々がある。

 忘れられない思い出である。

 おふくろの生家は、遥か遠くまで見渡すことができる田畑に囲まれた一軒屋であった。

 昔の駅名で、名鉄今村駅(現在の新安城駅)から、南の方向に一本道で、1キロほど行った大道山(現在の今池町)にある。

 玄関は、少し奥まったところにあったが、入り口は、道路沿いに直径10メートルくらいで、高さが2メートルほどの小高い場所が作ってあった。

 そこには、大きくて、立派な3本の松が植えられていた。

 植えられていたのか、それとも、開墾した時に、残したものかも知れない

 農作業の休憩や、子供たちの遊び場になっていた。

 「三本松」の愛称で呼ばれ、今村の駅で電車を降りると、遠く南に、目立ちたがり屋のように、どっしりとした姿を、広い田園の真ん中で見せていた。

 まるで、農園を見渡し、監視しているようであった。

 美しい光景であった。

 おふくろに連れられて、今村で電車を降り、バスに乗る。

 しかし、バスの本数が少なく、待ち時間が長い時は、「三本松」をめがけて、歩いた。

 おふくろに手を握ってもらい、歩いた。

 「三本松」までの一本道は、子供の私には、すごく遠く感じた。

 それでも、「バスに乗ればいいじゃんか・・・。」などと、拗ねた思い出はない。

 今から始まる、おふくろの生家での楽しい日が待っていることで、胸が膨らんでいたからである。

 

 その頃、おふくろの実家には、おふくろの兄と、私のいとこ夫婦、そして、いとこの子が4人暮していた。

 いとこは、私より、一10歳以上も年上で、伯父と一緒に、毎日、農作業をしていて、遊び相手は、私と同世代となる4人の子供達であった。

 その4人の子供達と遊んだのである。

 住まい家と廊下を挟んで庭があり、そこには水路を引き込み、池が掘られていた。

 綺麗な水に「錦鯉」が沢山泳いでいた。

 「ザリガニ」、「カエル」も混じっていた。

 庭の周囲の樹々は手入れされていた。

 「モミジ」の紅葉、「ナンテン」の赤い実が記憶に残っている。

 鮮やかな色は、何時までも記憶に残っているものなのだと思う。

 「かくれんぼ」「缶けり」「おにごっこ」「なわとび」など、そして、部屋の中では「カルタ取り」「すごろく」「トランプ」などして遊んだ。

 夜は、お風呂が楽しかった。

 「五右衛門風呂」であった。

 子供達だけで入り、湯船に浮かぶ木でできている蓋のようなもの(蓋かもしれない)に乗り、湯船の淵をつかみ、しゃがむと、蓋がゆっくりと沈んでいく。

 蓋が沈んでいくのに合わせ、しゃがんでいる体を、湯におぼれないようにだんだんと立たせていく。

 そのタイミングが面白かった。

 湯船のそこまでたどり着くと、湯船から上がり、蓋が上がってくるのを、「早く浮いて来い」と思いながら待つ。

 蓋が上がりきると、また、湯船に入って、同じことを繰り返した。

 繰り返し、繰り返し・・・。

 昼間遊んだ体の汚れを洗うのも忘れて、「ワイワイ」言いながら、楽しんだ。

 そして私が中学に入った年に、私は、この田畑で「昆虫採集」をし、夏休みの宿題を完成させることが出来た。

 「オニヤンマ、ギンヤンマ、イトトンボ、オハグロトンボ」、「ミンミンゼミ、アブラゼミ、ニイニイゼミ」などが庭にいた。

 朝、樹を揺すると、「カミキリムシ」など、甲虫類。 

 「カブトムシ」は、夜、部屋の明かりに惑わされて、飛んで来ていた。

 そして、「アゲハ蝶」・・・。

 住い家から畑に抜ける通路に、「豚小屋」「牛舎」があり、その匂いに馴れていない私は、「くさい」匂いをかかないように息を止めて、顔を上に向け、その顔を振りながら、全速力でそこを通り抜けた。

 ほんの15メートルくらいのところであったが、通り抜けると、大きく深呼吸をし、一緒に通り抜けた子供達と笑顔をぶつけ合った。

 御視察に来られた宮様達も、ここを通られた時は、私と、同じようなしぐさをなされ、通り過ぎようと思われたかもしれない。

 その先には、「ブドウ、スイカ、ウリ」などの畑、日常の食事に出てくる「ネギ」「トマト」「キュウリ」「ナス」などの野菜の畑そして、切り花用の花畑が続いていた。

 全て、出荷するものであった。

 畦道は、綺麗に草が刈られ、今、私がしている草取りなんぞは、お遊びである。

 「レンゲ畑」を駆け巡った思い出・・・。

 生家から、50メートルほど離れて、東西に「明治用水」が作られていて、生家の、横には幅が50センチ、深さが30センチほどの水路が「明治用水」から引き込まれていた。

 「スイカ」や「ウリ」などを冷やしていた。

 また、私が幼稚園の頃には、その水路でおふくろに手を握ってもらいながら、水浴びをした。

 真っ裸で「おちんちん」と「お日様」を対面させ、お日様に「おお、元気だのう、頑張れ、ちびちゃん・・。」と言って貰っていた。

 青空のもと、実に健康的であった。

 おふくろに「笹舟」を作ってもらい、この水路に浮かべ、流したこともあった。

 小学校の高学年になり、泳ぎができるようになってからは、「明治用水」で泳いだ。

 3つ違いの兄(4番目の兄)と一緒に・・・。

 水泳パンツを持っていないが、泳ぎたくてたまらない・・・。

 「てぬぐい」を2本用意して、1本は捻りを付けて腰に巻き、もう1本を股に通し、腰に巻いた1本にひっかけ、「ふんどし」を作った。

 別段、恥ずかしいという気持ちはなかった。

 この時代は、こんなものだった。

 「泳げるぞ・・・。」

 そんな嬉しい気持でいっぱいであった。

 知らない子供も、沢山泳いでいた。

 伯父さんといとこの大人達は、朝早くから、農作業であった。

 広い畑、出荷など、大変であったろう。

 午前中に1度と、午後に1度、休憩をしていた。

 休憩時には、50センチ幅の水路で冷やした「スイカ、ウリ」などを、「三本松の山」で食べた。

 「三本松の山」には、石でこさえた椅子、テーブルがあった。

 新鮮な果物に、冷たい水滴が光り、みずみずしかった。

 その美味しさ、懐かしさ・・・。

 「明治用水」は住い家の近くでは東西に作られていて、その先は、私の故郷の高浜市を流れ、衣浦湾に流れ込んでいる

 私が中学に入ると、3歳違いの兄(私は2月生まれで、私が1年生、兄は3年生であった。 )と2人で、「明治用水」をさかのぼり、「明治用水」の傍のおふくろの生家まで自転車で遊びに行くことがあった。

 10キロくらいの距離で、刈谷市の依佐美地区を超えて走った。

 「明治用水」をさかのぼって行けば、「三本松」が眼の前に現れ、出迎えてくれるので、道に迷うことはなかった。

 帰りには、自転車の後に大きな籠を付け、その中に沢山の野菜、沢山の果物を入れてもらい、夕暮れの川沿いを帰った。

 お米や麦も入っていた。

 昔の事で、今のような軽やかな自転車でなく、自転車は重かった。

 でも、自転車の後ろの籠の中の様子を思うと、早く家について、みんなで食べよう・・・。

 そんな気持で、帰ったものであった。

 時は流れ今、農場はなくなり、農家ではなくなっている。

生家のまわりの田畑は、高層マンションになり、道路沿いには、沢山の貸店舗、貸事務所、そして、工場が建ち、昔の面影は何処にもない。

 交通量の多い道端になっている。

 「明治用水」には、蓋がかぶせられ、堤は桜並木の遊歩道になっている。

 ブラジルに来る前の4月に伯と2人で、「明治用水」沿いにある祖父の墓にお参りに行き、その後で桜並木を歩いた。

 「ここで、泳いだ・・・。」

 思い出が甦る。

 桜並木のベンチに座り、伯が作った弁当を食べながら、遠い昔を懐かしく思った。

 何時までも、忘れることのない、楽しかったことばかりである。

私の少年期の思い出である。

 私と言うより、私の兄弟は、みんなこんな想い出があるはずだ。

 でも、1人だけ、そんな思い出のない兄弟がいたのかもしれない・・・?

 それとも、忘れたの・・・?

 

       澄みわたる 空の青さか 太陽か

            わが「チンチン」は 清き水浴び

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