風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第127段
おふくろの事 ごく普通の「かあちゃん」
兄は、執筆した本の中で、おふくろの事を「母よ、俺にはあなたの思い出は『旧家のお嬢さん』ぶった素振りしかない。」と書いているようだ。
どこから、こんな言葉がでてくるのか?
あほらしい言葉である。
おふくろの生い立ちから、書き始めます。
おふくろのお父さん、つまり、私の祖父は、碧南市新川町松江の「貧農」の家に生まれている。
兄が書いたような「旧家」の生まれではない。
旧家というのは、その地域や地方において、それなりの社会的地位を古くから維持してきた由緒のある家をいうのであって、祖父が生まれたのは、旧家ではない。
祖父は、「貧農の家」に生まれている。
祖父は、貿易商に奉公に上がり、その貿易商の所有地の開墾に従事していた。
その場所は、現在の安城市和泉であった。
そして、明治用水の開通に伴って、現在の安城市新安城(昔は、今村と呼ばれていた。)
の開墾に、祖父は支配人として活躍した。
そして、永年の功労を認められ、田畑八反歩、家屋、農機具などをもらい自立した。
農業の多角経営を計り、日々、農業の改善に邁進していた。
現代の企業が行っている「日々改善」をこの時代にすでに実行していたようだ。
その「日々改善」の様子は、「絵葉書」にもなっている。
そして、果樹、畜産などの多角的農業を成功させ、祖父の農場は「日本のデンマーク」という言葉を作らせてしまった。
秩父宮様、高松宮様や多数の方々が御視察にお見えになり、家の入口には、秩父宮様が御視察にいらした記念碑が建っていた。
農場で働く人は、多い時で50人くらいいたと聞く。
決して、旧家ではない。
そして、日々の暮らしは質素であったと聞く。
「新興農家」である。
おふくろは、明治時代の最後の年に生まれている。
私は、おふくろの幼少期、少女時代などのことを、おふくろから聞いたことがない。
お嬢さんであったのかどうかは、知らない。
私の少年期に、おふくろの実家に遊びに行くと、床の間に琴が2面飾られていた。
きっと、おふくろと、おふくろのお姉さんの物だと思った。
お嬢さんのたしなみを収得していたのかもしれない。
私は、おふくろが、おやじと結婚したいきさつをよく知らない。
ただ、おやじの実家の隣の人が、仲に入り、話を進めたとしか知らない。
私とおふくろの会話の中で、おふくろが若い頃の夢を話したことがある。
「結婚をする前に、学校の先生になりたかった・・・。」ということであった。
先生になる免状は持っていた。
昔の事、親が進める結婚には、反対出来なかったのであろう・・・。
先生になれなくて、本当に、残念に思っていたのであろう。
もし、おふくろが先生になっていたなら、「二十四の瞳」の「大石先生(おなご先生)」のような優しく、生徒に慕われる先生になっていたであろう・・・。
私の少年期のおふくろは、隣のおばさんと同じように、炊事、洗濯、掃除、買物と忙しく、働いていたのを思い出す。
毎日、エプロンをして、どれ1つサボってはいなかった。
その姿は、「日本のおふくろ」の姿で、決してお嬢さんと言えるものではなかった。
私が知っている人で、代々医者で、これぞ旧家のお嬢さんで、結婚した後、お歳を取られてからも、踊りを習ってみえる人がいる。
このような人が、「旧家のお嬢さんでしかない。」のかもしれない。
しかし、結婚してからでも、踊りを習ってみえるのは、健康のためかも知れない。
私が、太極拳を習い始めたと同じように。
簡単に、「旧家のお嬢さんでしかない」と言える人間なんて、いないようだ。
そして、簡単に、ましてや、間違って人様を「こうである。」と決めつけるな!
誰が毎日の飯を焚き、誰が毎日の洗濯をし、綺麗なパンツを用意してくれていたのか・・・。
おふくろは、享年101歳であった。
年をとっても、自分でやれることは、自分でやっていた。
おふくろは、96歳の時、腰骨を骨折してしまった。
成功率40%の手術は成功したが、もう、車いすの生活になるはずが、頑張って、頑張って、頑張り通し、歩くことができるようにまでにした。
厳しいリハビリを96歳という歳で、頑張り抜いたのである。
病院の医師、看護師は驚いていた。
これも、私達に厄介をかけまいと、頑張った、おふくろの姿であったと思う。
おふくろは、楽しんで、俳句を詠んでいた。
新聞、読書・・・。
おふくろの「静」の部分であった。
おふくろは、95歳を超えても、NHKの「テレビ体操」を座りながら続けていた。
おふくろの「動」の部分であった。
自分の生活を自分で考え、立派にそれを成し遂げた。
何も言わずに、私に人としての生活の仕方を、晩年になっても、教えてくれた。
教えようとしたのではないが、結果的に教えてくれた。
兄が言うおふくろなど私の心の中では何処にもいない。
私は、下手な文章であるが、この地球に,私なりのおふくろ像を残しておく。
まほろばは 我が心の中に おわします
母の優しさ 溢れんばかりぞ
※おふくろの実家が、大きな農場であった事を、私が知ったのは、私が高校の通っていた時に、家に置いてあった安城市の歴史を書いた本を、偶々読んだ中でのことで、おふくろからは、それまでも何も教えては貰っていなかった。
小学校の授業で、「日本のデンマーク」といわれても、おふくろの実家とは知らなかった。
祖父は、昭和13年11月に、享年71歳で亡くなっている。
私は、直接、会ったことがない。
それでも、私は祖父を尊敬している。
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