風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第98段
11月のお盆
11月2日、ブラジルは、お盆である。
仏教に限らず、キリスト教もお盆である。
お母さんは、親戚のおばさん達とテテの運転で、先祖の墓参りに出かけた。
私と伯は、サンパウロの東本願寺に出かけた。
地下鉄の駅から、2キロほどのところにある。
8月の日本のお盆にお参りに行き、今度が2度目の東本願寺へのお参りであった。
清々しい風の中、トロールバスがゆっくりと走り抜けていく街の中を、2人で歩いた。
からっとしていて、汗はすぐに乾いた。
汗かきの私にとって、気持のよい風であった。
お寺に着き、本廟御影堂でお参りした。
8月のお盆の時には、私と伯だけであったが、今回は多くの人たちが、お参りに来ていた。
お参りをして、御影堂を出ようとした時に、1枚の瓦が飾られているに気づき、立ち止まった。
縦が53センチ、横が41センチの大きな瓦である。
明治期に御影堂の再建の際に、愛知県三河国の門徒である人から寄進され、100年余りの歳月を風雪に耐え、御影堂を守ってきたとあった。
瓦には、刻印が押され、「三河国 再建工作支場 古新田」とあった。
私の故郷の三河で作られたものである。
私の故郷の高浜市は、三州(三河)瓦の産地として有名なところである。
古新田という地名が、高浜市の中の地名であるかどうかはわからない。
しかし、私の故郷の三河で出来た瓦を、ブラジルまで運んで、屋根を葺いたということに、感動を覚えた。
また、百年の昔にすでに、三河で瓦が作られていたことを知ることができた。
私の少年時代は、黒瓦を焼く「ダルマ窯」という窯が街中にあり、その煙突から黒い煙が立ち上る風景が、脳裏に映しだされ、故郷を懐かしく思う時間を持つことができた。
洗濯ものが、「油煙」で黒くなり、おふくろが困っていた。
私達子供は、その「油煙」で黒ずんだ顔をして、家の外で元気に遊んだものである。
お寺の事務方に、おやじ、おふくろの供養をお願いし、お寺を後にし、次に寄る予定のリベルダージに向かった。
リベルダージに着き、真っ先に昼の食事にありついた。
6ヶ月ぶりのラーメンであった。
ラーメンのメニューから「味噌ラーメン」を注文してみた。
食いしん坊である私には、どんな味であるか、出来てくるのが待ちどうしかった。
少し待ち時間が長く感じたが、ブラジルのことであるから、これが普通であろう。
やっと味噌ラーメンがテーブルに運ばれてきた。
味に違和感はなかった。
味噌の味は、日本で味わっていた味噌とは違うが、間違いなく味噌である。
味噌は、その店で作っているとの事であった。
白味噌と、赤味噌を混ぜたような色で、少し酸味のある味の味噌であった。
久しぶりのラーメンに感激した。
食事を終え、「ブラジル日本移民史料館」に足を運んだ。
今日は、瓦といい、ラーメンといい、日本にいた頃のことを思い出す事柄に出会うことが出来た。
この史料館でも、日本人のたくましさに感動を覚えた。
日系1世の人達が、幾多の苦難を乗り越え、頑張り、学校を作り、2世を教育し、その2世をブラジルの世界に送り込み、ブラジル社会で活躍した跡が、写真やビデオで語られていた。
移民が始まってから、100年を経過している。
移民の初期には、コーヒー園での仕事で、ブラジルに着いた初めの3ヶ月は、草とりが仕事で、説明の中に、「奴隷的」という言葉も使われていた。
私は今、庭の草取りをはじめて5ヶ月を超しているが、楽しみの中の草とりである。
同じ草とりでも、意味合いは全く違う。
手造りの粗末な家を建て、苦しい中での移民の歴史が始まったことを知ることができた。
そして今、ブラジルに溶け込み、日系人の文化をブラジルの中に作って生活を営んでいる。
日本人は、素晴らしいと思えるようになった。
お盆ということで、おやじが好きであった日本酒と、おふくろが好きであった稲荷ずしを買い、家路に着いた。
家に着き、日本酒と稲荷ずしを供え、ろうそくを灯し、線香をたいた。
ブラジルでの初めてのお盆ということで、風さん達は、「また、お盆なの?」と、けげんそうであった。
また、会えて話ができたのだから・・・。
何時でも、来てくれよ。
久々の ラーメンの味 のどごしに
幸せ感じる 食いしん坊なり
東本願寺御影堂の瓦。
その文言。
初期の移住者の建てた小屋の内部。
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