風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第66段

初めての小旅行


 「初めてのお使い」を経験し、今度はブラジルに来て、「初めての小旅行」である。

 マチダ家は、敬虔なるカトリック信者である。

 年に1度、ブラジルのカトリックの総本山である、ノッサ セニョーラ アパレシーダ寺院に、参拝に出かける。

 ブラジルは、カトリック信者が多く、10月12日の祭日には、ブラジルの各地から、20万人を超す信者が、この聖堂に参拝に訪れる。

 世界的にも、有名な大聖堂である。

 

 大聖堂は、1930年代から建設が始まり、まだ完成の域に達してはいない。

 赤レンガ造りである。

 信者の寄付によって建てられ続けている。

 大聖堂から少し離れた場所に、小御堂がすでに1745年には建てられている。

 この二つの聖堂は、長い橋で繋がっている。

 たくさんの参拝の人達が、その橋を渡って小御堂に行く姿が、遠くまで続いていた。

 御本尊は、大聖堂が建てられ始めたられた時に、小御堂から大聖堂に移された。

 この大聖堂は、グラルーリョスから、160キロ離れた、アパレシーダ ド ノルテ市にある。

人口が3万人の静かな山間の街である。

 キヨカズの車で、お父さん、お母さん、伯と5人で出掛けた。

 高速道路は、いつも行くサンパウロとは反対の方向で、初めての道であった。

 遠くには、霧にかすむ山並みが続いていた。

 山並みは、どこまで走っても、続いているという感じであった。

 時々、小さな村が丘陵地の斜面に広がっているのが見えた。

 やはり、赤い屋根そして、赤い壁であった。

 山の中の高速道路であるが、遥か遠くまで真っ直ぐな個所が多く、カーブは緩やかな道路であった。

 キヨカズは、ラジオをかけ、ビートルズの音楽を流してくれた。

 

 到着するとすぐに、キヨカズはお父さんのための、車いすを借りてきた。

 私は、車いすを押す、キヨカズの後に付いて行った

 キヨカズは、ティーシャツを着ていた。

 背中には、ビートルズの大きな写真がプリントされていた。

ビートルズの四人が、一列に並んで、横断歩道を横切っている写真であった。

 以前、キヨカズのマンションに行った時、その模型があったことを思い出し、余程ビートルズが好きなんだなあ、と思った。

5人で広い聖堂の中に入って行った。

 参拝の人達で混み合い、なかなか前に進むことができなかった。

 ゆっくり進むことで、天井や、壁に描かれたかれた絵画を、しっかり見ることができた。

 途中で、お母さんと伯とは、買物のため、別行動となった。

 

 キヨカズの押す車いすで、お父さんは、両手を肘かけに置かれ、ゆったりたりされておられた。

 マチダ家に聞こえる讃美歌の合唱ではなく、澄んだソプラノのソロが、大聖堂を清らかに、そして、暖かく包んでいた。

 それを、静かに聞いておられるようだった。

 眼の前に見える丘の上には、御本尊の大きなレプリカが、大聖堂を見降ろしていた。

太陽の光を浴びて、参拝の人達の心を、安らかにするに充分であった。

 

 多くの人達が歩きながら、長いローソクを持っていた。

 1メートルを超す長さのローソクである。

 4、5本持っている人もいた。

 お母さん、伯と合流した。

 お母さんも伯も、その長いローソクを何本か買ってきていた。

 家族の数だけ、買ってきていた。

 ローソクの長さの意味が判った。

 「自分の背丈」であることを、お母さんは知ってみえた。

 短いローソクは、ネネの背の高さである。

 私のローソクを、伯が渡してくれた。

 足の長さに関係なく、身長の高さである。

 足の長さのローソクであったなら、恥ずかしいではないか・・・。

 煙の立ち込める、広い部屋に入った。

 2方の壁際には、数えきれないほどのローソクに火が灯され、その前で人々が、思い思いにお祈りをしていた。

 窓から入る木漏れ日に、煙が青く、揺れているのが見え、厳かに感じた。

 私達も、ローソクに火を灯し、お祈りをした。

 御本尊に礼拝に上がる前の、御燈明を灯す儀式なのだろう。

 御本尊の礼拝に向かう列に並んだ。

 人混みのスロープの中を、少しずつ進んでいった。

 車いすを押すには、きついスロープであった。

 列は時たま、止まってしまっていた。

 車いすを押すのを替わろうと、キヨカズに言ったがキヨカズは頑張った。

 親孝行な奴だ。

 スロープを登り切り、御本尊の前に、やっと着いた。

 「褐色の女神像」、「アパレシーダの聖母」と呼ばれている、「ノッサ セニューラ アパレシーダ」が、祀られている。

 くり抜かれた壁に嵌め込まれた、ガラス張りの箱の中で、それこそ、言葉の通り、光り輝く、「アパレシーダの聖母」の御姿である。

 1700年頃、アパレシーダ市に流れているパライーバ河で、3人の漁師が漁の際、網にかかり、河から引き揚げられた御本尊である。

 ブラジルのカトリックの信者が、全てではないが、この聖母を信仰している。

 マチダ家の祭壇も、この聖母像を祀ってある。

 私は、聖母が祀られている壁に片手をあて、頭を下げ、お祈りした。

 私は三つのことを、お祈りした。

 一つは、「ブラジルに移住した目的を達成させるため、頑張ります。」と。

 あとの二つは、ここでは書きません。

 後段で・・・。

 帰り途は、食事のため、行きに通ってきた高速道路を途中で降り、「アイルトン セナ高速道路(ロドビア アイルトン セナ)」に乗った。

 灌木がところどころに自生している、広い牧場が続いた。

 家畜小屋と思われる赤い屋根の家が、ぽつんと建っていた。

 何時間でも、ゆったりとそこに居たいと思う、長閑な風景であった。

 地表から30センチほどの高さで、褐色の円錐形をした物が、点在していた。

50センチを超す物もあった。

 伯が、「蟻の巣」と、教えてくれた。

 地上で円錐形をした、蟻の巣を見るのは、初めてであった。

 サトウキビ畑が広い丘を埋めていた。

「さとうきび畑の唄」を思い出した。

 私の好きな歌である。

 「ざわわ、ざわわ、広いさとうきび畑は、ざわわ、ざわわ・・。」

 歌の歌詞は、出てきたが、テレビで見たことのある沖縄の風景とは違っていた。

歌詞は途切れた。

 「ざわわ。ざわわ・・」がない。

 この日は、風が止んでいて、サトウキビは揺れてはいなかった。

 今日の朝、風さんから、私に電話があり、「今日は、風邪をひいてしまったので、お休みを取ります。

そちらには、お伺い出来ません。」とのこと。

 1時間ほどでアイルトン セナ高速道路を降り、一般道を走った。

 林の中を走り、ところどころに出てくるアルファベットの道路標識を除けば、日本の一般道を走っている、と錯覚しそうな景色であった。

 林の中の川辺に建つレストランで、食事をした。

 お父さんが「ピンガを飲むか?」と私に聞かれた。

飲まないわけには、いかないではないか。

 昼間であろうと、お父さんの直々のお言葉に、お断りする理由など、どこにもない。

 「お願します。」

 「男なら、ピンガを飲まなきゃ、なああ。」と会話を交わした。

 魚料理で、味も大きさも、日本の「わかさぎ」に似た魚のフライの味が、懐かしく思え、特においしかった。

風さんはお休みではあるが、林の中で、川辺のレストランは涼しく感じた。

 お父さんの故郷に近い、まだ樹々が多く残る、静かな山間の村であった。

 こんな静かな村で育っているのに、どうしてそんなに、「やんちゃ」になってしまったのだろうか?

 むしろ、そんな世界であったからこそ、「屈託のない、やんちゃ」が生まれたのであろう。

 

        聖堂を 流れる讃美歌 安らかに

                車いす押す 親子を包む


※  「高速道路」の段で、料金所が、どのようなものか、判らない、と書いたが、

これは、次のとおりです。

高速道路の料金所は、サンパウロから50キロ以上離れた場所に点々と、設置されている。

サンパウロから、遠くなるほど高くなる。

今回の小旅行で通過した料金所は、150円、200円、500円であった。

サンパウロから遠くなると、料金は高くなるが、別にサンパウロから高速道路に乗らなくても、同じ料金である。

どれだけの距離を走ったのではなく、どこで高速道路に乗ったとしても、料金所を通過すれば、既定の料金を支払うというシステムであることが、今回の小旅行でわかった。

高速道路のチケットはない。

料金は、道路の補修などに使われている。

キヨカズ談。

ノッサ セニョーラ アパレシーダ寺院

ローソクの灯りが、ゆらゆらと揺れ、礼拝堂でのお参りの準備をする。

ロウソクは、自分の背丈の長さである。

アパレシーダの聖母が、壁に埋め込まれ、燦然と輝いている。

家庭用のアパレシーダの聖母のレプリカ。

お参りの帰りに寄ったレストランに飾られていた民芸品の人形と壁掛。

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