風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第43段
フッチボールの思い出
コンフェデレーションカップで、日本は3敗して終わってしまった。
テレビで家族と一緒に観戦した。
ブラジル戦では、厳しい意見の「旅の疲れで動きが悪い。」
イタリア戦では、「日本は強くなった。」
メキシコ戦は、テレビでは中継はなかった。
私は全部勝って欲しかった。
特にブラジル戦を除いた2つを勝って、2次リーグに残って欲しかった。
残念な結果で終わった。
日本は、ワールドカップには是非とも優勝をして欲しいと思う。
ブラジルではサッカーとはいわずにフッチボールという。
そのフッチボールの日本での思い出を書いておこう。
日系の人たちが私の勤める会社にはたくさんいた。
会社がクラブ活動を推進していて、クラブを作り申請すると、年間に1人につき6千円ほどの補助が出て、活動が出来るという制度が出来た。
日系の男の子の従業員に話かけ、サッカーのクラブを作ることを申請した。
部費で足りない費用は、個人で負担し、ユニフォーム、靴、ボール等を揃えて体制を整えた。
隣町の碧南市にリーグがあると聞き、早速そちらのリーグで2部からの出発である。
初戦は、会社の日系の応援団もかなりのものとなった。
会社に集合して、私の車を含めて六台の車で、会社を出発したまでは良かった。
もうトラブルであった。
試合場は隣町のグランドで、私しか場所は判らないので,私は六台の車の先頭を走った。
1つの交差点に着いた時に、事件が起こった。
青の信号で私は交差点を通り過ぎた。
後続の日系人の乗る車は、赤の信号で停止した。
私は路肩に車を止めて後続車を待とうとした。
が、運が悪すぎた。
交差点では、警察が、シートベルトの着用の取り締まりをしていたのである。
私はきちんとルールを守っていたが、日系人はシートベルトをしていなかったのである。
この交差点の角には警察の詰所があり、日系人の乗る5台の車は、全てその詰所行きになってしまった。
私は車を詰所に入れて「すみません。すみません。」と謝ったが、全部の車が罰金を取られる羽目になってしまった。
日系の人のお世話をするには本当に私の指導不足であったと反省した。
日系ブラジルは、やはり強い。
2部ということもあるが、全戦勝利である。
10点以上も入れて、完勝の試合もあった。
私はその勝利を誇らしげにまとめて、クラブ活動の報告として、会社に掲示するためのチラシを作った。
その成績は会社のクラブ活動としては、最たるものだったと、今でも自負出来る内容と思っている。
すでにリーグ戦は、最終戦に入っていたのだが・・・。
もう優勝は無敗で決まっていて、来年は1次リーグ決定である。
最終戦は私も味方のゴールの後ろでゆっくりと観戦していた。
優勝は決まっているのに、選手たちは、いつもと違い、やりにくそうにしていた。
たまたま、我がチームのメンバーが、怒鳴ったような言葉で審判に言いよった。
私も審判の仕草が適切でない、自信のない差配と感じてはいた。
要するに、審判はヘタであった。
私が見ている自軍のゴールから、一1番離れた相手方のゴールの前で、事件は起こってしまった。
もう試合は自軍の勝利目前であったが、我が軍の1人のメンバーが、審判にポルトガル語で抗議をした。
審判にはポルトガル語が判るはずもない。
審判に暴力を振るってしまったのである。
他のメンバーもいきり立ち騒然としてしまった。
私は咄嗟に歳も考えずに、椅子を離れ、ちんちくりんの短い足で、乱闘現場に出来る限りの全速力で走った。
乱闘現場に着いた時は、すでに乱闘は終っていた。
遅かりし・・もっと、若ければ・・。
後日、リーグの例会があり、その席に出席した。
我がチームは、リーグから排除、もう来てはいけないとの通達。
1部リーグへの夢も、優勝の夢も全て消えてしまった。
審判は肋骨骨折であった。
そのチームは、私の勤める会社の隣の会社のチームで、相手の会社にお詫びの品を持って「すみませんでした」と謝りに上がった。
サッカーチームの監督さんが出て来てびっくりした。
私の1年上の中学の先輩であった。
また、私の会社の社長も、相手の会社の社長もサッカーが好きで、学校時代にサッカー部に所属していた。
同じ町内という事で、相手の監督さんの計らいで問題は解決した。
高浜市という町はサッカーの繋がりが多いところでもある。
この事件で、サッカークラブは消滅してしまった。
もう20年も昔の話になってしまった。
いま思い起こすと懐かしく、微笑ましい出来ごとになっている。
幼き日 憶えた技量は すばらしい
なれど心も もっと磨け!
街んかには、私的なサッカーグランドが整備されている。
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