風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第26段
リベルダージ(リベルダーデ)
ブラジルに移住してまだ2ヶ月も経っていない。
日本を離れ、遠いブラジルでの生活は、伯があれやこれやフォローしてくれている。
快適で、不満はない。
ただ非常に残念に思うことが、1つだけある。
そのことは、伯についてにことはない・・・当然です。
前段までは少々間違いがあっても、後で訂正しても問題ない、と思う内容だがこの段は真面目に、間違いのないように書いておく。
リベルダージはサンパウロ市にある『日本人街』である。
あれやこれやと行きたがり屋のジンタに連れて行って貰った。
ジンタの家族3人と伯と私である。
時間の都合で、日本式庭園や移民史料館等へは行けなかったので、これらは次の機会に行ってみようと思う。
『日本人街』は、日本の新宿歌舞伎町並みの賑わいで、それこそ老いも若きも入り混じり、人、人、人であった。
日本にいた時に、インターネットの写真を見たことのあるスズランの街燈が続く坂道を、5人でのぼり、大きな赤い鳥居をくぐり、商店街に出る間、これが『日本人街』なのかと感激の気持が興奮と共に込み上げてきた。
店には、日本の商品も多く置かれ、寿司、日本酒、醤油、飴玉、他の店では陶器、飾り物などが売られている。
伯とミユキは、日系人が開いている店に入り、味噌と醤油、それに日本の飴を買った。
値段はどれも日本で付けられている値段の、大体2倍から3倍くらいと思う。
陶器などは日本より高いのか安いのかは判らなかった。
関税が掛っているということもある。
逆に日本にあるブラジル人の店の商品は日本の方が高い。
露天商も多く店を出していて、今川焼の店があったので1個150円で買って食べたが、余り美味しくなかった。
値段も別に輸入品ではないのに高い。
伯は「ブラジルの人は遊びに来ている時は、少々高くても買って食べる。」といったが、うまくなかった。
日本でもお祭りなどの露天商は、高いと同じである。
今川焼を食べながら、歩いている途中で、私は本屋を見つけた。
日本の本を売っている店である。
いろいろ見ている中で、ブラジルでの日系人の百年の歴史を書いた本があった。
「あっ、これ、ほ し い な あ・・・。」と。
四冊に分かれていて、全部買うと、1万円を超してしまう。
到底、許しは出ないだろう。
今日は、やめておこう。
いつか、タイミングがよい時に、そっと、お願いすることにした。
街を歩くにつれ「寂しさ 残念さ」が込み上げてくるのを感じた。
街を歩いていると、日本で使われている漢字に混じって、何と読むのかも判らない漢字(?)が、あちこちの看板に書かれている。
店の陳列や、中の様子を見入ると、そこは到底日本風とは思われない光景である。
ブラジルの人は、この光景を日本のものと思っているのだろうか?
日本人が見ればその光景は日本ではない。
私から見れば中国風である。
日本風に見せようとしているのかどうかは判らないが ち が う !
残念である・・・!
日本にいる頃に、インターネットで見た、リベルダージの項目の中に、「元々は『日本人街』と呼ばれていたが、日本人の現地への同化が進むとともに、日本人の人口が減少しはじめ、それと入れ替るように移民数が増加してきた中国人や韓国人が、多くここに住むようになってきた。
そのために、2004年に正式に『日本人街』から「東洋人街」へと改名された。
しかし、もともとは『日本人街』だっただけに、街づくりや人口、店舗の比率からして『日本人街』と呼べる。」と解説している。
リベルダージを訪れる前に、街の名前の改名の事実は知っていたし、説明の文章からそんなにはひどくはないと思っていた。
しかし、訪れてみて私の感じたリベルダージの街の様子は、『日本人街』とは到底呼べない。
街並みの赤い鳥居、スズランの街燈はもともとの日本の形を留めているが、看板、店の陳列物は中国である。
食品のラベルは、日本風にしてあるが、日本の漢字でない漢字(漢字というかどうかは知らないが)が入り混じって印刷してある。
店で働いている人も中国人であるとすぐ判る。
どうしてそんな光景なのか。
「移民が少なくなった。」
「ブラジルに同化した。」
それで日系人が少なくなった。
この2つの理由だけで、どうしてでこの街を離れなくてはならないのか、疑問を感じる。
何処に2004年に「東洋人街」と正式に改名せざるを得なかったのか。
『日本人街』ではもう儲からないから出て行ったのか?
そうでもないと思う。
ブラジルと日本の間で何かあったのか?
ブラジルと日本の間で戦争があったのか?
何かの理由で国交断絶があったのか?
それとも・・・・
友好過ぎて、日本人街の日系人も、日本に仕事に出てしまったのか?
・・・・・・
そうかもしれない。
その間に、どのような権利関係かは知らないが、変わってしまったのかも知れない。
そうだとすれば、この街にとって日本へ仕事を求め出かけていったことは、大変な損失のように思える。
そうであって欲しくはないが、ブラジルには不況、失業、就職難、財政破綻の時代は確かにあった。
日系人が、日本を頼って、帰国したり、職を求めたのは多かったと思う。
個々の理由は幾つかあると思うが、街の名前が変わってしまった年代を思うと、日本へ仕事をするためにリベルダージを離れたということが、大きな原因になっているように私は思える。
きっと、リベルダージを離れ、日本に仕事に出た。
土地、家屋などを全て処分し、日本へ出稼ぎでなく、永住を考え、日本に仕事に出た人もたくさんいる。
大きく間違ってはいないと思う。
この原因は、まだはっきりと私の中で解決していない。
これから色々な人と出会うと思うが、聞きながら解決をしていこうと思う。
この街が、私の読むことのできる漢字ばかりには、もうならない。
しかし、まだ日本は残っている。
もうこれ以上、日本を減らさないでくれ!
頑張ってくれ!
寂しく、悲しく、残念に思った。
時代とは 恐るべきかな 帰り来ぬ
おのれが起こした 土を踏ませず
大鳥居と、スズラン灯を赤い欄干の大阪橋から撮影した。
大阪橋から、橋の下を通る幹線道路を撮影した。
遠くには、サンパウロの住宅用のビル群が立ち並んでいる。
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