風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第20段

シュハスコ(焼肉)パーティー

 ちょっと疲れました。

 パーティー疲れです。

 毎週土曜日と日曜日に、なんやかんやパーティーがある。

 親戚が集まり、家庭の庭でのパーティーもある。

 毎週続いていて、肉を食べるのに、少々疲れました。

 私が馴れないことで、伯は色々と気を使ってくれている。

 だから、場の雰囲気に入っていける。

 ただ、時間が長く、次から次にと焼肉がでてくるので、これからは歳も歳だし、セーブしようと思う。

 

 パーティーが多いので、1つ1つ書いても、肉を食べてビールを飲むことに変わりがないので、抜粋して書いてみよう。

 日系人に関係したパーティーを、2つ紹介します。

 紹介する1つは、沖縄出身の日系の人で作られている、サンパウロの沖縄県人会(他にも沖縄県人会は幾つもある。)という組織のパーティーである。

 150坪程の建物を借り、「沖縄会館」という名前で、1ヶ月に1度県人会の人たちが集まり、会費制で食事会をする。

 その会費を、会の運営費に充てている。

 部屋には、歴代の会長さんの写真が、ずらりと掲げられている。

 白木の板に、会のために寄付した人の名前が漢字で書かれ、寄付の金額もその下に書かれている。

 日本の神社でよくみられる掲示の方法である。

 ブラジルの貨幣の単位は、ブラジルでは今は「ヘアウ」であるが、20年位前は「クロゼール」であった。

 寄付のお金の単位が「クロゼール」のものもたくさんあり、暦年の活動の跡が覗える。

 お年寄りもたくさん参加していて、日系4世となる子供がすでに参加していた。

 ひょっとすると、5世がいるかも知れない。

 ブラジルに住む日系の方々が協力し、老人をいたわり、子供をかわいがり、生きている姿がここにはあった。

 会話が弾み、会は盛り上がっていた。

 すばらしい絆と感じた。

 カラオケあり、ビンゴありの楽しいひと時であった。

 カラオケは日本の歌がほとんどで、ある人は五木ひろしの「長良川艶歌」を歌っていた。

 ものすごく上手に歌っていた。

 歌手になってもいいくらいの歌い方で、日本語も発音も満点だった。

 妹婿のジンタ(もう呼捨てです)が、私の事を事前に「日本人が来る」と情報を流したのか、カラオケのときに、ポルトガル語で「日本から来た人がいます。歌って頂きましょう。」とか言ったらしい。

 伯がそのことを私に教えてくれたが、まだ新米でお酒も遠慮をしていて、歌う度胸などもうとうないので、お辞儀をしながら、手で「だめだめ」のサインをして、丁重にお断りした。

 日系ブラジル人1世の人は、小さな船で3ヶ月もかけて、全く知らない国へ来て・・・。

 どんな苦労があったのか・・・。

 どんな思いであったのか・・・。

 「苦しかったに違いない。」

 しかし、簡単にこの言葉を書いて良いか、どんなに辛い苦しみであったか、想像を超えるものと思う。

 言葉にしてはいけないくらいの・・。

 100年もの長い間、厳しい風を吹きつけられ、仲間の優しい思いやりに包まれ、素晴らしい絆を創り上げてきたのだ。

 そう、思った。

 もう1つも、日系の人たちの集まりであるが・・。

 これもジンタに連れて行ってもらった。ジンタはあちらこちらのパーティーに出席することが好きらしい。

 「母の日」のできごとである。

 「ニッポン カントリー クラブ」というところがあり、母の日にクラブの会員が、お母さんのための祝賀会をするという趣旨である。

 樹木が茂り、マレットゴルフ場があり、大きな池、プール、サッカー場、野球場、テニス、バスケットなどたくさんのスポーツが楽しめ、木陰には幾つものコテージがあり、庭園が整備され、とてつもなく広い場所である。

 会員は、休日をここでゆっくりと、過ごすことが出来る。

 ホテルも経営されている。

 各家族が、お母さんを中心に、それぞれの思いを持って、お祝いをする。

 家族といっても親族で、お母さんが何人でもいる。

 ジンタの親族は30人ほど来ていて、それぞれの家族は、一品ずつ手作りの料理を持参していた。

 肉を焼くのは、男衆の仕事で、女衆は食べるだけが仕事である。

 持参した料理は、各自の家庭で女衆が作っているからか・・・。

 隣のコテージではカラオケが始まっていた。それも、それこそ言葉通り朝から晩までの歌いっぱなしで、日本の歌の御パーレードであった。

 「いい日旅立ち」「秋桜」「スバル」「学生時代」などであったが、私の聞いたこともない歌も歌っていた。

 もう日本でも歌われないだろう「別れの一本杉」とか「お富さん」も歌っていた。

 「お富さん」をブラジルに来て聞くとは思わなかった。

 飲みすぎ!食べ過ぎ!をしてしまった。

 休憩した。

 伯と2人で木陰のベンチに座り、幾つかのことを話した。

 遠いブラジルに来て、こんなにゆったりした時間を過ごせることを、幸せに思った。

 時間はゆっくりと、また風がゆらゆらと、私の心にほほ笑み、語りかけ、通りすぎて行くのを感じた。

 遠いブラジルに来た私の心を優しく包んでくれていた。

 「いまの風・・きっと・・おふくろ!」

 おふくろが、私のいるブラジルに来てくれたのだ・・・!


 母の日に ふく風たちよ 共に来よ

      今のそよ風 きっとおふくろ

※ 私の実母は、平成23年1月に亡くなっている。(享年101歳)


沢山のパーティーがあるので、上に書かせてもらった2つと違ったパーティーを写真で紹介します。


月に1回開かれるタノモシ講のパーティーです。

各家庭で料理を1品づつ作り、集まる。

庭に出て、子供も混じり、夜遅くまでパーティーが続く。

この日は、建物の外壁をスクリーンに見立て、無声映画時代のチャップリンの喜劇が上映された。

4歳になる女の子の誕生日会。

真ん中に大きなバースデーケーキ、そして周りには、お菓子がいっぱい。

ケーキやお菓子、そしてデコレーションは、全て誕生日を祝ってもらう女の子のお母さんの手作りです。

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