風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第12段
親戚がやってきた
私たちが到着した次の日から、お父さんとお母さんの親戚が、連日入れ替わり私に会いに、マチダ家に訪ねて来られた。
会いに来られたというより、私を見に来られたと言った方がいいであろう。
伯は、懐かしそうに、うまくハグをしていたが、私は握手をするのが精いっぱいであった。
日本語が判る親戚は、日本語で私に話かけてきて、会話をすることができた。
その日本語が、私にはあまり理解できない人もあったが、相槌はしっかり打っておいた。
親戚の人達のお互いの会話は、当然ポルトガル語で、話をしているので、私には何を話しているか全く判らなかった。
きっと「足と手の短いちんちくりんが来たなあ。」と、私のことを言っているのだろうと思った。
でも私より足の短い人もいるじゃんか。
親戚のなかには、日本で私が勤めていた会社で、一緒に働いた人たちが10人近くもいた。
20年ほど前の出来事を、懐かしく思い出しながら、会話ははずんだ。
プラスチックの自動車部品を製造する小さな会社で、私は営業と製造を兼任していた。
総務人事も手伝っていた関係で、時々小牧空港まで、ブラジルの人を迎えに行ったり、一時帰国や、帰国の人を送って行ったりしていた。
また、ブラジルの人を集めて、日本での生活のための注意点などを、通訳を介して話したことがあり、皆よく私のことを覚えていてくれた。
永い年月の流れの中で、癌を患いカツラをつけた女性や、肝臓の移植をした女性もいた。
でも笑顔で再会出来た。
ただ1人、会えなかった人がいた。
お母さんの弟の「コウジさん」とは会えなかった。
コウジさんは、私と一緒に仕事をした、最初の日系ブラジル人である。
魚釣りが好きで、休日には、私が子供の頃よく遊んだ川(稗田川という名の川で、コウジさんの苗字も偶然、ヒエダであった。)で釣りをしていた姿が思い出される。
もう8年も前に亡くなっている。
心筋梗塞で発見が遅かったという。
コウジさんがブラジルに帰ってからの出来ごとである。
このことはすでに、日本にいる時に情報が入っていて、私はブラジルに行ったら、ぜひコウジさんのお墓参りをしたいと、伯に話していた。
お母さんと一緒にテテ君の運転で、お墓参りに出かけた。
途中で鉢植えの白い菊を、お供え用に2鉢買って持って行った。
墓苑は街から離れた場所だと思っていたが、街中で賑やかな場所の緩やかな丘陵地にあった。
墓苑は、丘陵地を覆うほど広かった。
お墓は壁も天井も、磨かれた石で箱型に建てられ、それが遠くまで並び、続いていた。
日系人のお墓には、漢字で「○○家之墓」と石に刻まれていた。
コウジさんの墓は「稗田家之墓」です。
亡くなられた順番に、故人の写真入りの額が掲げられて、その下に名盤があり、コウジさんの名前が刻まれていた。
コウジさんの写真は、私の知っているコウジさんより若くみえた。
お母さんにそのことを話したら、日本に行くずっと前の、若い頃の写真ということであった。
お墓に供える花は、日本のように切り花ではなく、鉢植えを供える。
お花を両側に供え、線香を焚き、お祈りした。
「コウジさん、一緒に仕事をしてくれてありがとう。 懐かしいです。 安らかに・・・。」
お母さんたちはカトリックだから、十字を切って(というのが正しいか判らないが)お祈りしたが、私は仏様にお参りするように合掌した。
後日、自宅で伯が幼いころの兄弟や家族、親戚の昔のアルバムを私に見せてくれたときに、お墓に飾られていたコウジさんの写真を、私は発見することが出来た。
「コウジさん」と心の中で言った。
一緒に日本で働いたことのある人の名前は憶えていたが、初対面の親戚の名前と顔は、犬の名前と同じく、憶えることができなかった。
別に親戚と犬を一緒にしているわけだはないのですが・・・。
私の記憶力の減退をさらけ出しているだけだ。
この広い 墓地に眠れる 同僚は
笑顔のままで 話かけくる
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