風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第251段
3月は、灰色の空から始まった。
そして、1週間ほど「夕立もどき」が毎日、雷鳴と共に降った。
青空は、この月の最後の1週間ほど、お目見えしただけで、風は冷たく、いつも爺さん、長袖のシャツを着ていた。
そんな中、アメリカに住んでいる息子と娘から、立て続けにメールが届いた。
私が、12月中旬に4人の孫(昨年、息子夫婦が2人目の孫を授かり、孫が4人となった。姫である。)に送った「クリスマスカード」と「プレゼント」の入った郵便がやっと届いたとのことであった。
2ヶ月半もかかって届くとは何てこった!
どうも郵便の扱いがおかしい。
私がブラジルに来た頃は、日本でも、アメリカでも普通郵便の航空便なら2週間で届いていた。
いまは、それでは届かない。
私が、日本に出した年賀状は、1ヶ月くらいかかって日本の知人に届いている。
また、12月に息子あてに郵送した郵便物の1通は、3月が終わるというのに、まだ届いていない。
日本年金機構が私に送った「年金の現況届」も3月中旬に届いている。
日本年金機構に2月に電話を入れた時には、すでに1月に郵送しているとの返事であった。
孫に送ったクリスマスの郵便では、4通の内1通は、プレゼントが抜き取られ、抜き取られた後で、のり付けされたようであった。
何かおかしい・・・。
「郷に従え…。」といっても、この出来事は腹立たしく思う。
さて、今年としては初めてのバザールへの出店は、昨年3月に鯛焼を初めて売ったイラカホーンのバザールであった。
昨年は、客が鯛焼を見て、「ケシゴム?」「どうして遊ぶの?」と聞かれたことが懐かしく思われ、また惨敗を喫したバザールでもあった。
そして、1週間後には、リベルダージの日本文化協会の主催の「ブンカマツリ」に出店した。
昨年、初めて500個余りの鯛焼とベベパンダを完売したフェスティバルである。
今年は、イラカホーンでは、2日間で400個余りの鯛焼、そしてブンカマツリでは、400個余りの鯛焼と200個余りのベベパンダを共に完売することが出来た。
昨年の出店の際にこまめに記録した「販売進捗表」を参考にし、生産計画を立てた結果で、販売記録を残したことは、重要な戦力になった。
一般のバザールでは、鯛焼は1日200個くらいの売り数、ブンカマツリでは、昨年の完売時刻から、生産個数を20%増やし、計画を立てた。
そして、ピリカラ漬の結果であるが・・・。
予想を超えて、順調であった。
ピリカラ漬を最初に販売したバザールでは、3個しか買ってもらえなかったと記憶している。
今回、イラカホーンの2日間では、36個、ブンカマツリでは、1日で38個のピリカラ漬を得ることが出来た。
あれやこれやといじくり回しながらレシピや素材の状況を変えながらトライをしてきたことが、ようやく、実ってきたと感じた。
Qすけは、一人前になり、もうニンジン、ダイコン、リンゴなどの手助けなしで、1人で頑張れるほど成長した。
「エスペリメンタ(試食してみてください)、エスペリメンタ・・・」と1日中、客に声を掛け、試食してもらっている。
こんな事をしているのは、どのバザールでも、爺さんだけである。
でも、それが、実に楽しい・・・。
試食の客がポルトガル語で話かけて来た時には、隣にいる伯が客との会話を担当してくれている。
鯛焼とピリカラ漬は、昨年暮れ、リベルダージでは余り良い成績ではなかったがやはり、日系の方が沢山みえるバザールでは、5個入りの箱、がよく売れた。
行きつ戻りつ。
頂上はまだまだ、先のことと思っている。
ただ、伯と2人で作り、伯と2人で売り、買ってもらえる楽しさ。
「同じ空気を吸って生きている。」そう思う。
爺さん「息をすることを忘れずに・・・頑張ろう。」と思っている。
そんな、出店の準備の中で、庭は、草取りだけでなく、庭作りをするようになった。
予算の関係で、当初の計画とは、全く違った庭になりつつあるが、通路に「ジャリ」を敷きはじめたり、レンガで囲み、植物のテリトリーを決めたりし始めている。
野菜は、未だうまくいかない。
銀木犀の苗を1本植えた。
ブラジルには、金木犀はないようだ。
あの金木犀の香が懐かしく、その代わりに銀木犀を植えた。
ブラジルでは、「銀木犀のことをジャスミン」とも呼んでいるようだ。
日本は、「桜」の季節が始まっている頃だ。
懐かしい・・・「桜」が風に舞い、花吹雪・・・心に浮かぶ。
故郷、大山緑地の桜達、きっと憶えていてくれている。
あなた達をやさしく見ていた、おふくろの穏やかな笑顔・・・。
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