風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第250段

2月の風(2015年)


 今年の2月の朔日は、日曜日であった。

 毎年、2月の第1日曜日は、爺さんの故郷、高浜市で結成されている「とりいぬ会」の年度総会の日と決められている。

 毎年、幼馴染が集まり、美味しい料理を食べ、酒を酌み交わしながら、お互いの健康や懐かしい昔話を語り合う。

 50年余り昔、幼馴染がいがぐり頭とおかっぱ頭で共に学び、語り合った木造の2階建の赤い屋根の校舎。

 何故にその様なことをしたか憶えていないが、2階の教室のベランダから、火事でもないのに、競争で校庭に飛び降りた想い出。

 「俺は、怖くねーぞ!」と勇んで飛び降りたのだった。

 「コラー!」と、近くで先生の声。

 慌てて逃げた想い出。

 爺さんの心の奥の透きとおった広い湖に浮かぶ「想い出カルタ」は、何時までも消えることはない。

 第2週の日曜日は、サンパウロの愛知県人会の総会であったが、欠席せざるを得なかった。

 それは、今から25年前、伯と一緒に日本に働きに行った伯の従兄弟のキヨミが25年ぶりに、故郷ブラジルに帰国し、帰国のお祝パーティーが開かれ、親戚一同が集まったためであった。

 伯と私は、クリーム入りの鯛焼を作り、パーティーが開かれる時刻より30分くらい前に、会場となった従兄弟の家に行った。

 伯と2人で、「赤いFIT」に乗り、涼しい風に包まれながら・・・。

 キヨミとは5か月前に日本で会ってはいたが、顔を見るなり、キヨミは涙顔になった。

 キヨミとハグをし、「よく帰ったね・・・!」と、爺さん、声をつまらせながら・・・。

 キヨミは、「嬉し涙」と「懐かし涙」を・・・。

 暫くすると、親戚の人達が次々とやって来ては、キヨミとハグをしながら「嬉し懐かし涙」を流し、ポルトガル語で短い言葉を交わしていた。

 パーティーが始まり、食事をしながら、変わるがわるキヨミの周りに集まり、話が弾んでいた。

 話の中で、キヨミは時々、涙を流していたが、キヨミの廻りには笑い声は、尽きることはなかった。

 ポルトガル語で何を話しているかわからないが、きっと、この涙も「懐かし涙」であったに違いない。

 キヨミは、18歳で日本に働きに出て、働きはじめて1年ほど過ぎた頃に日本の青年と結婚した。

キヨミが新婚さんの頃、偶然、コンビニで出くわし、「スズキサン、醤油ってどれ?」と聞かれ、醤油を教えた事があった。

きっと、日本料理を覚えようとしていたのだ。

今は大学3年生の長男、すでに結婚し1児の母になった長女、今年の4月に中学生になる二女の3人の子を授かった。

 6年ほど前に離婚をし、それからは1人で3人を育ててきた。

 大変と思うが、頑張れ・・・!

 鯛焼を食べたキヨミは、「日本の鯛焼より、うまい。」といった。

 焼いた爺さん、その言葉をお世辞とは思わない。

 爺さんの鯛焼は、日本の鯛焼よりうまいのだから、世界中で1番うまいではないか・・・!

鯛焼の生地は、スポンジケーキに近い。

 このパーティーの前日の土曜日もパーティーであった。

 アルジャ(※グラリューリョスを挟みサンパウロと反対方向のグラリューリョスの隣町)に住む伯の従兄弟が、日本で働いていた頃、従兄弟の上司であった日本人の今田さんという方がブラジルにみえたのだった。

 パーティーでは、日本語であるから、爺さん、今田さんと気軽に話が出来た。

 西尾市に合併した吉良町に住んでみえ、写真撮影を趣味とし、今回のブラジル訪問は、ブラジルに住む日系人の生活を写真に収め、帰国後に個展を開きたいとのことであった。

 全日本日本写真連盟、ニッコールクラブ、そして街中の写真家で作っている写真クラブに所属し、活躍してみえる。

 良い写真が撮れ、個展が成功することを願う。

 爺さんはもう、写真を撮り、発表しようとは思わない。

 それをしたら、何のために写真を諦めたのか。

 爺さん、戌年。

「負け犬」で良いではないか・・・。

 同年の友がメールで私にくれた言葉、「人生万事塞翁が馬」。

 この様になるように、目的を忘れずに、頑張ろうと思う。

 

 そして、21日(土曜日)、22日(日曜日)には、これも立て続けに、伯の従兄弟の子の誕生日会のパーティーに出席した。

 パーティーの多い月であった。

 今までは、パーティーを選んで出席していたが、今月は欠席出来ないパーティーが多かった。

 それでも、この月最後の日曜日のパーティーは、欠席させてもらった。

 

 グラリューリョスの2月の空は、1月の猛暑のような空でなく、灰色にくすんだ空で雨が多かった。

 すさまじい雷鳴、稲光、豪雨。

 爺さんが草を取っている庭は、1時間余りの豪雨で、足首のあたりまで全面水溜まりになった日もあった。

 1月に珍発見した部屋の中での霧吹きでの「打ち水」をした日は1日もなかった。

 朝方は、特に寒く、枕元に長袖を用意し、朝方着るという具合であった。

 その雨の中、月の中旬には、ブラジルの最大のイベントの「カーニバル」が開催された。

 リオデジャネイロのカーニバルが有名であるが、あちらこちらの都市でも開催されていた。

 サンパウロもその1つであった。

 爺さん、カーニバルは、今年もテレビ観戦だけであった。

 ニュースでは、青森の「ねぶた祭」の山車が、参加していたとのこと。

 これは、三陸沖地震の時に、ブラジルから青森へ義援金を送ったお返しをしたのだった。

雨の中、大変であったろう・・・。

 テレビは、華やかなカーニバルの行進の映像を流す反面、サンパウロなどのでは、豪雨のため、道路が冠水し、車が立ち往生をしている映像や、人が膝まで水に浸かりながら、移動している映像を流していた。

 ブラジルの華やかな舞台と、まだまだ、未熟な行政の一端が見てとれた。

 水不足ということで、水道代、電気代の値上げの声があがっている。

 それも、10%から30%くらいとか・・・。

 値上げはいいが、値上した分、水源のインフラなど、水道に関係した処に使って欲しいと思う。

 世界中、油が値下がりしているのに、ブラジルだけ油が値上がりしている。

どうして?

 良からぬ事柄が横行しているようだ。

 トラック関係は、この油の値上がりで、ストライキを決行し、輸送が停まり、スタンドのガソリンが無くなり、牛乳が輸送できずに、大量に腐って廃棄処分をしていた。

 この2月にバス代が値上がりし、食品もじわじわと値上がりしている。

 日本のようにデフレなんて考えられない。

 この豪雨でも、水瓶は、豪雨のまえにくらべても、五十歩百歩である。

 休学していた美容師養成学校へ、伯は、再び行きはじめた。

 月曜日から金曜日までの毎日コースである。

 朝6時半、まだ薄暗い玄関を、大きなリュックを背負い、出掛けて行く。

 順調にいけば後、半年で資格修得出来るようだ。

 頑張っている。

 そして、その後に、「ネイル」を収得するとのこと。

 早くしないと、お婆ちゃんになっちゃうぞ・・・!

 庭は、新しく植えた物はない。

 まだまだ、草取りは続いている。

 

 ブラジルは、この2月のカーニバルが終わると、1年の始まりが本格的に動くという。

 バザールもそうである。

 3月には、2つのバザールに参加予定である。

 伯は、美容師養成学校もあり、大忙しになると思う。

 手伝えることは手伝い、効率よく、バザールへの準備を始めている。

 去年のバザールに比べ、多くの成果を得るために、してきたことを、充分発揮できるように伯と相談しながら、綿密な計画を建てようと思う。

 そして、計画だおれにならぬよう、身を引き締めて・・・。

 

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