風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第232段
40日間、日本滞在(その40)
「めんどうみ」社長(その4)
出社しても、仕事のない「窓際族」になってしまった。
よくもこれまで落ちることができたものだ。
これだけ落ちると、立ち直ろうとする気力を持とうとも思わなくなった。
出社し、皆と一緒にしていることは、空気を吸っているくらいのことであった。
もう私の仕事は、これで定年を迎えるだけと思った。
転職し働いてきた、この10年。
一体何であったのか・・・。
私は、55歳になっていた。
ある日、私の携帯電話がなった。
「久しぶり。今日、仕事が終わったら、俺の家に来てくれるか?」
「ああ、伺います。」
「めんどうみ」社長からの電話であった。
1日中、仕事のない仕事を終えて、社長宅に足を運んだ。
社長は待っていた。
客間に通され、大きなテーブルを挟んで、向き合って座イスに座った。
奥さんが入ってこられ、「お久しぶり。」といって、お茶を出して下さった。
「さて、俺の仕事を、手伝ってくれないか・・・。」
そして今、社長がしている仕事を細かく、説明してくれた。(言葉使いは、私と社長のなかであるから、敬語などいらない。)
休眠会社でなく、新しい資本の下で社長が設立した会社であった。
その仕事の内容は、塗装設備の設置やメンテであった。
プラスチックの自動車部品を製造していた会社には塗装部門があった。
主に、モールの塗装ラインがあり、社長は、その部門を取り仕切っていた。
塗装についてはプロ級であった。
その技量を生かし、塗装ブースの設置、メンテなどの仕事を立ち上げていた。
また、出入りする会社で、従業員が不足すると、何処かに従業員がいないか、探して欲しいと言われ、「めんどうみ」社長は、人を探し、頼まれた会社に派遣していた。
この2つの仕事、塗装設備のメンテを含めた仕事と人材派遣の2本立てであった。
私には、何も知識のない分野であった。
でも、「お願いします。」と、後日、電話で連絡した。
4月1日になり、新しい会社の事務所に出社した。
そこにいたのは、藤岡さんで、藤岡さんは休眠会社となり、従業員が皆、親会社の工場に移籍した時、勇退し、家庭に入っていた。
藤岡さんは、ただ広いだけの事務所に1人、座っていた。
この事務所は、部品を製造していた時の本社機能を持った場所で、管理職や事務員が15人位、机を並べ仕事をしていた場所であった。
机なども、その時と同じように、沢山並べられたままであった。
私は、この本社ではなく、ここから1キロほど離れた工場に勤務していたので、私の机はなかった。
けれども、懐かしく思え、藤岡さんとその頃のことを話した。
従業員は、事務員の藤岡さんと20歳を過ぎたばかりの男子が2人だけであった。
仕事は、余りなく、ゆったりとしていた。
土曜日になると、客先の塗装ブースの掃除や、塗装ブースの排気ファンの清掃作業があった。
私は、2人の男子の内の八重樫君を連れて、客先に出向き、排気ファンの清掃をした。
前かがみになりながらの作業で、腰に負担がかかり、終わると、腰に痛みが残った。
八重樫君は、まだ若いので、その様なことはなかったようであった。
この八重樫君、朝は少しも起きない。
仕事がある日の朝は、私が仕事の道具を積んだトラックで、八重樫君の家まで迎えに行っていた。
玄関で、八重樫君を呼ぶ。
起きてこないのであった。
何度も、何度も戸を叩き、ひどい時には30分以上も、呼んだことがあった。
こんな仕事から、55歳の私の新しい仕事が始まった。
どんな仕事にせよ、5年前の再就職の時、そして今また、この社長のいる会社にお世話になり始めたことは、私にとって、有難い話であった。
お世話になりっぱなしであった。
定年まで、仕事をしないのが仕事で終わってしまうと思っていたが、私にとっては、また、仕事のある仕事ができるようになった。
どうして私に声がかかったのか、理由はどの様であってもよかった。
詮索はしなかった。
また世話に どんな仕事も こなすべく
新規一転 我の生きざま
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