風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第230段
40日間、日本滞在(その38)
「めんどうみ」社長(その2)
前段の「努力賞」受賞や、先に書いた、高校2年の体力検定で、2級をもらったことが私の人生で輝いていた時と思う。
でも、それ以外は、輝ける星は、何処にもない。
ただ、これだけである。
私の人生の中で、たったこれだけしかないから、わがままをいい、書かせてもらいました。
私が、この会社で勤務するようになってから、3年が経った。
その頃、専務であった「めんどうみ」社長とは、月曜日の朝の始業前の、幹部の週例会議だけで、他に顔を合わせることは殆どなかった。
私が任された工場は、本社から1キロくらい離れたところにあった。
本社からは、殆ど誰も来なかった。
大型成型機の導入があった。
親会社が、「バンバービーム」という、欧州向けの製品を開発し、その製品の大きさがグループ会社にあるどのブロー成形機でも、小さくて成形ができないでいた。
どでかい成形機が、私が任されていた工場に設置されることが決まった。
今迄の成型機は、横幅3メートル、奥行5メートル、高さ3メートルくらいの成形機が1番大きな「90ミリ級ブロー成形機」であった。
今度設置が決まった成形機は、120ミリ級で、横幅7メートル、奥行7メートル、高さは10メートルという、とてつもない大きさであった。
ピットを掘り、その上に設置されたが、いちばん上が工場の天井に届きそうであった。
設置してみると、天井との隙間は、数センチ開いていただけであった。
バンバービームの成形のトライは、2度で終わり、量産化の入ることができた。
90ミリ級の成形機の「パリソンコントローラー(パリコン)」よりも精密な「パリコン」が付いていたので、成形条件は、90ミリ級よりも数倍(数10倍?)も優れていた。
大型成形機の導入がスムーズに終わり、成形は順調に推移していた。
入社4年目に入ると、今度はブロー工場を新設する計画が持ち上がっていた。
そして、もう1つは、翌年のゴールデンウイーク後にラインオフを控えている車種の新しい製品のライン化号試、成形のトライが待っていた。
新工場に機械を移動させ、試運転をし、量産するまでの日程は、3週間と決まった。
3週間の在庫と、仮に試運転が遅れた場合のことを考え、4週間分の在庫を成形することにした。
親会社からの内示情報から、その数を決め、箱数がどのくらいになるか計算し、親会社に提示した。
私が提示した箱を確保するために、親会社は新しい箱を作成してくれた。
その頃は、幾つかの部品に共通に使えるように設計されていたので、新しい箱は、他の製品にも使用することはできた。
箱数が決まり、私は、今からストックする製品ごとに、ストックする箱数だけの番号札を作った。
ストックの製品が出来、箱詰めされたらその箱に、品番と番号が記入された番号札をさしていった。
番号札がなくなれば、予定のストックは完了というシステムにした。
順調にストックはできていった。
一方、ライン化号試、成形トライは、こちらの思惑と、親会社の思惑が一致しない処があり、うまくいかない部分があった。
ブロー成形は、中空の製品を作り、両端をカットしなければ、製品にはならない。
そのために「カット、穴あけ治具」が必要である。
それができるまでは、試作品は全て手でカットし、手で穴あけをしなくてはならない。
15面の新製品を1つ1つ手作りで仕上げた。
工場の作業者に、手の空いている余分な作業者はいなかった。
それは、私が改善し、作業者を切り切りまで少なくした結果でもあった。
私は、何度も何度も成形し、試作品を手作りした。
翌年3月、私は50歳になっていた。
そして工場移転が始まった。
新しい工場が出来、今迄の工場にある成形機が分解され始めた。
ストックを使い始めた。
生産をしなくても良くなった日系人に、通訳を通じて、それぞれの仕事の指示を飛ばした。
旧工場に残り、出荷の準備をする者や、後片付けをする者。
新工場では、移設されてくる成形機の廻りのレイアウト。
そして、まだまだ続いていた、試作品の手作り。
「カット、穴あけ治具」はまだ出来てこなかった。
ゴールデンウイーック後のラインオフであったが、ゴールデンウークになっても治具は出来てこなかった。
私の疲れは、ピークにさしかかっていた。
丁度、このゴールデンウイークには、会社の35周年の祝賀会を北海道でする計画があり、飛行機で北海道に行ったが、飛行機の中、そして35周年のパーティーでも、部屋で寝ていた。
自由行動で、余市のニッカの工場に行き、ウイスキーを試飲するために、網の椅子に座り、冷たい風に触れ、ボンヤリとしたことだけが、残っている。
バスの中であろうと、観光地に着き、観光なんて出来なかった。
帰りの飛行機の中でも、ただただ、寝入っていた。
ラインオフになっても、2日間は手作りであった。
そして、遅ればせながら、治具が出来てきた。
すぐに、カット位置、穴あけ位置を調整した。
疲れ過ぎて、仕事に対しての思考がまとまらなくなっていた。
やりきりやってしまった。
これまでの1年間は、休日でもなんやかんや出勤していて、年間の休日は、15日くらいしかなかった。
馬鹿なことをしてしまった。
もっと、頭を使えば、こんなことにはならなかったのに・・・。
体は重い。
何もしたくない。
退職願を出した。
他の会社に行ってみたが、気が乗らなかった。
1日中、家にいても、どうして良いかわからない。
50歳の人間に新しくまともな仕事をさせてくれるような会社はなかった。
馬鹿な男であった。
それでも、少しづつであったが、体調は良くなってきた。
ハローワークに行って仕事を探してみた。
50づら、そんなにいい仕事があるわけがない。
もう1度、戻ろう。
5年間、頑張った会社に、再びお願いし、50歳での再就職、しかも、4か月前に退職した会社への再就職であった。
1ラインをまかされ、平社員からの再出発であった。
休みなく 疲れし体 精神も
我のものとは 何処も思えず
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