風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第229段
40日間、日本滞在(その37)
「めんどうみ」社長(その1)
まず、書いておこう。
この「めんどうみ」のよい社長と出会ったことは、私にとって今迄の人生の中で、最も有難いと思っている人である。
この社長と、私の同僚であった社員が、私と伯を招待してくれた。
酒宴の席は、私が勤務していた頃に、なにかと良く集まった場所で、和食を専門にしている。
私は、元同僚、事務員さんに話かけ、握手をし、社長の隣に座った。
私と同じで、定年退職した、藤岡さんも参加してくれた。
藤岡さんと一緒に仕事をしたことを懐かしく思った。
元気でおられた。
しばらくは社長と雑談。
そして、全員が集まり、乾杯をした。
ビールを1口飲み、ほっと一息ついた。
そしたら、事務員さんが、「結婚おめでとう。」と言って、大きくて立派な花束を差し出した。
私は、ビックリした。
咄嗟に、伯に花束を渡してくれるように、伯を指差した。
微笑みながら、伯が受け取った。
私は、照れくささが先に立ったが、「ありがとう。」とお礼を言った。
ユリの花の仄かな香が席を包んだ。
この席は、30歳くらいであろうか、新入社員の歓迎会でもあった。
新入社員は沖縄出身で、しっかりした風貌の若者男子のであった。
隣の席と言うことで、社長と昔のこと、会社の現状などを聞かせてもらった。
あの小さな会社をよくここまでにしたと思った。
私がこの面倒見が良い社長にお世話になったのは、45歳になってからのことであった。
従業員が百人を少し超したくらいのプラスチック自動車部品製造の会社であった。
この「めんどうみ」の社長のお父さんが社長をしておられ、この頃は「めんどうみ」の社長は、専務職であられた。
自動車部品の工場で、二次下請けの工場であった。
入社当時の仕事は、営業であった。
また、この頃から、ブラジルから仕事に来る日系人が増えてきて、小牧空港に日系人を迎えに行ったりしていた。
製造現場で、製造の基本を勉強することも、大切な仕事の1つであった。
私は、トヨタの「カンバン方式」とか、「QCD」などという言葉は、何も知らなかった。
入社して何時気も経たないある日、ライン化号試で、親会社のライン化号試の製造の責任者から、現場で質問をされた。
「RとLの見分け方は?」と。
「R?L?」、なんのこと?
さっぱり私は判らなかった。
「君は、RとLが何であるのかもわからんのか・・・。」としかられてしまった。
「すみません。」
そんなことの連発であった。
そして、1年位過ぎた頃に、1つの工場をまかされることになった。
親会社から出向していた工場の責任者が親会社の上司と険悪になり、来なくなってしまった。
親会社は、後任の人選をどのようにしたらよいか、迷っていると、私の上司から聞いた。
私は、親会社の出向き、「私にやらせて下さい。」と、お願いしたら、すんなりと決まってしまった。
この工場では、「ブロー」という車ではエアコンの風、燃料系統のエアーなどの通り道に使う中空のプラスチック製品を製造していた。
これも、何もわからないところからの出発であった。
作業者がするのを見ながら、段取り替えから、条件出しなどを覚えた。
この工場の作業者は、ブラジルから来た日系人ばかりで、日本人は、私と、20歳少し過ぎた若者と、20歳にもならない事務員の3人だけで、工場内はポルトガル語が話されていたので、ブラジルから日本に日系人が働きに来たのでなく、私達日本人3人が、ブラジルに働きに行ったと同じであった。
言葉は、通訳を介してのみ、通じた。
朝8時から夜8時までの2交代であった。
私は、毎日朝8時から夜8時まで勤務した。
その頃の日系人は、休まずに、少々熱があっても出勤してきた。
台風の日などは、腰まで水に浸かってでも、歩いて出勤してきたこともあった。
けれども、たまには休む人間もいて、特に夜勤に休まれた時などは、私が現場に入って朝まで仕事をする。
朝になると、また私の仕事が待っていて、36時間もぶっ通しで勤務したこともあった。
だんだんと、仕事にも慣れ、あちらこちら、改善をしようという余裕が出てきた。
工場をどのようにしようか・・・。
お世話になっていた親会社の部長さんと話をしていた時に、「小ロット生産」とか。「インライン化」という言葉を教えてもらった。
これをやろう。
先ず、小ロット生産は、その日の出荷分だけを製造する。
それには、シングル段取りを目指す。
金型交換に、30分以上かかっていた時間を10分以内に交換させる。
段替えの仕方を見ていたら、ブローの命であるブローピンの取り付けと調整の時間に殆どの時間を費やしていた。
毎回、毎回、取り付け調整をしているのであれば、金型にブローピンを外さずに何時も取りつけておく方法があればよい。
取りつける方法を見つけちゃったんです。
取り付けの改善をしたら、「シングル段取り」にすることができた。
そして次に、「インライン化」をした。
「アッシー治具」を成形機の近くに並べた。今までは、成形し、箱詰め、バリをとり、箱詰め、アッシーをし、箱詰めをしていたのを止めて、成形し、その場でバリ取り、アッシーし、完成品を箱詰めに変えた。
作業者の人数は26人いたのが、15人に減った。
工場内の在庫がなくなり、工場内が、一目で判るようになった。
1年半かかった。
日系人の中には、仕事が無くなると言って、私のやり方に腹を立て、職場放棄した者がいた。
でも、次の日には、出勤してきて、まじめに働いていた。
こんな努力が報われて、親会社の主催で開かれた、二次下請けグループの懇親会では、私がした改善に対して特別に「努力賞」をもらうことが出きた。
余談であるが、日系人が貯金をし、目標を達成したのか、帰国する日系人が出てきて、その度に、皆は、送別会を開いていた。
「シュハスコ」であった。
飲み物はビール。
私の悪い癖がここでも、出ていた。
帰国する日系人に向かい、私は「おい、靴を脱げ!」と命令した。
日系人の履いていた靴は、それなりに、それなりの物であった。
ビールのプルトップを開け、靴の中になみなみと注ぐ。
私は、靴を口に、そして、一気に靴の中のビールを飲に干した。
なにを、やってんの?
この工場での日系人との交流は、仕事を通して、楽しい想い出が多い。
充実していた。
工場へ 出社しても 言葉通じず
ここはブラジル? 日本のはずだが
※「ライン化号試」で私を叱りつけた親会社の課長さんには、その後、親しくしていただき、あれやこれやお世話になるように交友を高めていただいた。
頂いた花束。
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