風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第227段
40日間、日本滞在(その35)
鬼みち
私の故郷の高浜市には、「鬼みち」という遊歩道が作られている。
名鉄三河線高浜港駅から隣の駅の三河高浜駅までの5キロの道のりである。
道路や道路の脇に、いぶし瓦(黒瓦)の「鬼瓦」や「巴瓦」などが使われていて、昔の殺風景な道が、美術品の陳列道路のように見えた。
永いこと高浜市に住んでいが、この「鬼みち」を歩いたことはなかった。
五キロの道を、歩いてみると、「ここに誰が住んでいたけど・・・。」と、幼馴染の名前を浮かばせながら歩いた。
この5キロの道のりの中で、中学の同級生が20人程この道沿いもしくは道の近くに住んでいた。
私が知るだけの人数で、もっと沢山の同級生が住んでいたのかもしれない。
そして、今でも、同じ家に住んでいるのは、2人だけで、あとの同級生は他に家を建てたり、お嫁に行ったりして、誰も住んではいなかった。
街中の建物が昔の物がなくなり、殆どが新しい建物になっていた。
私が、昔というのは、私が中学生の頃のことで、今、古希を迎えようとしているのだから、街中が変わったのは当然である。
「鬼みち」を歩きはじめ、1キロほど行くと、「あかおにどん」という物作りを通じて、地域の人達の交流を高めるために作られた施設がある。
木工が主体のようである。
おふくろがまだ元気な頃に、アパートで、来客があったり、介護士さんが見えたりすると、おふくろは玄関まで錠を開けに行っていた。
玄関が段差になっていたので、木作りの桟を敷いた。
それを作ってくれたのは、この「あかおにどん」のお爺さん達であった。
段差がなくなり、寸法は、玄関にきっちりとはまる素晴らしい出来栄えであった。
おふくろはこれで転ばずに、玄関の錠を開けに行くことがでるようになった。
その「あかおにどん」から100メートルくらい歩いた処に、「かわら美術館」がある。
私は、今迄にこの美術館に来たことはなかった。
3階に行くと、色々な瓦が展示してある。
その展示場の前に、1枚の大きな「平がわら」が展示してあった。
なんと!
あの瓦と同じ瓦ではないか・・・。
サンパウロの東本願寺に展示してあった「東本願寺御影堂」を葺いていた瓦と同じなのであった。
やはり、焼いたのは、この高浜なのだ!
サンパウロで見たということで、感激であった。
この「かわら美術館」が建っている場所は、私がガキの頃に泳いだ場所である。
伊勢湾台風後に、海を埋めたてた場所である。
この美術館の横の高台のお寺に、陶器製では日本一大きい観音像が建立されている。
海を航海する船が安全に航海できるように、とのことであると聞いている。
でも、観音さんは、海の方を向いていない。
陸の方を向いている。
どうして?と、昔から思っている。
街中は、高浜という地名そのままに、町が1つの丘になっていて、坂道が多い。
その坂道を登って行き、また、下り、また登る。
その繰り返しで、やっと、丘の、頂上の道に出た。
そこには、「蓮乗院」というお寺がある。
山門から入った。
ここには、前段で書いたクモ膜下出血で逝ってしまった槙君の墓がある。
何時頃であったか余り記憶はないが、墓参りしたことがあった。
けれども、槙君の墓が何処か、探しても見つけることが出来なかった。
本堂に行き、本堂でお参りさせてもらった。
この「鬼みち」の最後は、「おまんと祭」が開かれたり、同年の「桜の宴」を楽しんだ「大山緑地」である。
本当に、ここは沢山の想い出のある場所である。
ここには、42歳の厄年の時に「とりいぬ会」の同年で神社に参道を寄進した時の記念の碑がある。
自分の名前、そして、友の名前を探し、感激で喉を詰まらせてしまった。
大山緑地の奥に行くと、焼物の街らしく、陶製の大きな「たぬき」がある。
私の「デブさかげん」など、すこしも「デブ」ではないように見える。
愛嬌たっぷりに高い処から、緑地を見張っている。
歩き終わり、お腹がすいたので、「かっぱ寿司」に入った。
久しぶりの「かっぱ寿司」であった。
「あの頃」は、良く食べに出かけた。
安くて、私にはぴったりである。
「かっぱ寿司」では、いつも、12皿くらいは食べていた。
「いか」や「貝」や「いわし」をいつも食べていた。
食べていたら、携帯電話が鳴った。
「はい、もしもし。」
「洋一です。この間のクラス会の写真が出来たから、今から持って行くけど、今、どこにいるか?」
「高浜のかっぱ寿司にいるよ。」
「そいじゃ、今から持って行くから、ゆっくりとしていてくれ。
ブラジルに送るとなると、面倒だから、渡しておくよ。」
そう言って、洋一君は、わざわざ、「かっぱ寿司」まで写真を届けてくれた。
「鬼道」が終わり、高浜の街を散策した。
伯が借りていたアパート、私が育った小学校の前の道、中学校への通学路など・・・。
もう、歩くことがないかも知れない、幼い頃の思い出が詰まった街。
三河線の高浜港と三河高浜の間に、1つの小さな陸橋がある。
2メートルくらいの長さである。
その陸橋の線路の下に、子供が入ることが出来るくらいの隙間がある。
「悪ガキども」は、その隙間に入って遊んだ。
カタゴト、ガタゴトと、電車の音が近づいてくる。
仰向けに寝転ぶと、目の上に線路が見える。
そら、来た!
ゴー。ゴー。
目の上、30センチくらいの処を電車が通り過ぎる。
電車が通り過ぎると、仲間と一緒に、笑顔で「やったぜ!」
線路の上に置いておいた釘は、ペチャンコになり、「カエル」を取る時の「銛」になった。
そんな、「悪がきども」の想い出の街である。
懐かしき 道は昔と 同じなり
初めての街を 歩いているよう
高浜市の美術館の前には、いぶし銀に焼かれた鯱ホコが「でん」と居座っている。
航海の安全を見守る、高台の尼寺に建立された陶器製の観音菩薩。
42歳の厄払いの折に、大山緑地(春日神社)の参道寄進を記念して建てられた、とりいぬ会同士の名盤。
真ん中の列の向かって左隅に、ちょこんと私の名前が刻まれている。
42歳厄年、60歳還暦時に同年の友と一緒にお祓いを受けた春日大社神殿。
70歳の古希は、ブラジルにいてみんなと一緒にお祓いに参加できなかった。
1人で参拝しました。
大山緑地のおおだぬき。
体格競争、どこもたぬきに敗けてはいないはず・・・・?
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