風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第212段
40日間、日本滞在(その20)
古希の旅行(その7)
帰りのバスの中
書き忘れのないように、初めに書いておこう。
この帰りのバスで、私は1滴たりと、アルコールを飲まなかった。
旅行が終わり、高浜から東浦まで車で帰ることになるから・・・。
当たり前のことなんだけど。
私が入会している「とりいぬ会」の年中行事は、2月の第1日曜日に「総会」を行う。
会計報告、役員選出、そして、懇親会である。
4月に大山緑地で「花見の宴」。
「バーベキュー」に「コップ酒」。
8月に、有志だけであるが、三河湾の「篠島」「日間賀島」「佐久島」や、東栄町の「大入りの里」など、行き先を決めての1泊の旅行。
11月には、年によって違うが、1泊か日帰りの旅行。
楽しみが、1年で4回ある。
そして、大きな旅行が今回の「古希の旅行」を入れて、3回あった。
1つは、「42歳の厄歳」の旅行。
これは、男子だけの集まりであった。
大晦日に大山緑地の春日神社で、初詣の人達にお神酒やミカンなどで接待し、その足で多賀大社に参拝し、加賀温泉郷へ。
大盃に酒をなみなみ注ぎ、廻し飲みをした。無礼講であった。
まだ、皆若かった。
2つ目は、「還暦の旅行」で、飛行機に乗り九州へ。
飛行機の行く先は、長崎空港であった。
飛行中に大雨に遇った。
私達が乗っていた飛行機が着陸態勢に入り、滑走路に向かったが、滑走路が見えずに、再度上昇。
30分ほどか、1時間ほどか、上空を旋回するだけで、本当に着陸できるのか?
友達とは、笑顔で話していたが、内心は恐怖混じりの会話であった。
小雨になり、やっと着陸。
ホット、一息ついだのであった。
宿に付き、宴会では「2人羽織」や「うらしま太郎」の寸劇などをし、最後には、宴会場いっぱいに輪を作り、全員で「炭工節」を踊った。
まだまだ、若かった。
そして、3つ目の「古希の旅行」である。
「厄年」「還暦」のように、無茶な行動はなくなった。
皆、ゆっくりと、お酒はひかえめに・・・。
歳相応の行動であったと思う。
ところが、元気な奴が1人いた。
昨日のバスの中で、「哀愁列車」を連発していた荘太君。
今日もまた、冗談交じりで話をし、皆を笑わせながら、身振り手振りを交えながらの「哀愁列車」の連続であった。
年に似合わぬ、すこぶる元気な「エンターテイナー」であった。
そして、秋の小旅行で恒例の「ビンゴゲーム」が始まった。
「ビンゴ」の用紙は、1枚百100で私は3枚買った。
たてよこななめに2列できると「ビンゴ」になるというルールであった。
数字が、どんどんと出るが、なかなか「ビンゴ」にはならない。
しばらくすると、「ビンゴ」の声が出はじめた。
私の持っていたカードの番号が出るが、あちらこちらで、1列に並ばない。
「ビンゴ、ビンゴ、ビンゴ」とあちらこちらで、声が上がるようになった。
私は3枚持っていたが、なかなか「ビンゴ」にならない。
やっと手をあげて「ビンゴ」と大きな声で言うことができた。
商品をもらった。
袋に38番目と書いてあった。
今日、この旅行に参加したのは47名。
その内、関東組の4名と、関西組1名の合計5人は、軽井沢で現地集合、現地解散であったので、「ビンゴ」に参加したのは、42名であった。
だから、38番なんて、しんがりに近い。
歩くもしんがり、歩かなくてもしんがりなんて、爺さん、大丈夫?
商品の中身は、「ビンゴ」を買った値段と同じ300円の現金が入っていた。
ブラジルに帰った私の財布には、袋のままの300円が入っている。
この旅行の想い出のお金になっている。
時が来て、バスガイドさんの別れの挨拶が始まった。
なんだか、もっと続けていたい。
もう2泊か3泊、何処かへ行ってくれないか・・・。
無理なら、1泊でもいいよ!
寂しさがよぎった。
何年前かは、もう数えない。
「綿入りの袢纏」を着、「破れた足袋」で「ぞうり」を履いていた「はなたれ小僧」の時代。
その頃からの、あまりに多い想い出。
数えきれない。
笑顔で杯、想い出を語らううちに、いつの間にか古希なんて・・・。
でも、古希は通過点・・・。
いつかまた、元気な姿で、会おうぞ、友よ!
きっと、会おう!
ゆっくりと 流れておくれ 砂時計
旅の終わりが 来ませんように
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