風よ伝えて(爺さんのブラジル移住)第221段
40日間、日本滞在(その29)
ダブルイタリアン
伯の従兄弟のキヨミとあった。
「東浦イオン」で待ち合わせ、昼食をとることにした。
キヨミは、小学校六年生の女の子と、20歳になった娘とその娘の赤ちゃんで、まだ1歳になっていない男の子と一緒に東浦イオンに来た。
イタリア料理のバイキング形式の店に入った。
伯とキヨミは、久しぶりに話をし、盛り上がっていた。
ポルトガル語であるから、何を話しているか、私には判らなかった。
私は、男の赤ちゃんをあやし始めた。
私が人指しゆびを出すと、小さな手で握り締め、愛想よく笑っていた。
可愛い限りであった、
膝の上に抱くと、まだ歩けないのに、足を延ばしたり、縮めたりし、元気が良い。
このまま、連れて帰ろうか・・・。
キヨミは、20歳前に伯達と一緒に日本に来ている。
そして、伯と同じ会社で働きはじめた。
私が45歳で転職したプラスチックの自動車部品を製造する会社であった。
それから、キヨミは今日迄20数年の間、ブラジルに1度も帰っていない。
ミユキは、20歳になった頃に、同じ会社(私も伯も、同じ会社に勤務していた)の若い運転手と結婚している。
国際結婚の手続きをどのようにするのか、私に相談してきていた。
私は、その方法が全く判らなかった。
「とにかく、市役所と、ブラジル領事館に聞きながら進めるしかないよ。」とだけ教えた。
若い2人は、2人だけで、見事に籍を入れた。
国際結婚に関しては、私の先輩である。
2人が結婚してからのある日のこと、私はキヨミと、コンビニでばったりと出会った。
「ススキザン、醤油ってどれ?」と聞いてきた。
醤油がどれかを、教えた。
「判らないことがあったら、聞きに来いよ。」
頑張っているようであった。
1年ほど経って、若い2人に子供が出来、キヨミは退職し、家庭に入った。
運転手の若い旦那も、お金を稼ぐために、今より収入が上がる長距離の運転がある会社に転職していった。
それからは、彼らとは、年賀状だけの付き合いになってしまっていた。
もう、20年余りも、ブラジルに帰っていないキヨミ。
一緒に日本に来た兄弟達は、とっくにブラジルに帰っている。
「それは、帰りたいよ。でも、まだ、娘が6年生だから・・・。」
日本で毎日、鉄工所で働きながら、子供を育てている。
キヨミにはもう1人、男の子があり、その子は今大学3年生である。
キヨミ、もう少しだ、頑張れ!
ブラジルに戻ったら、一緒に「鯛焼」を焼こうではないか・・・。
3年前、キヨミは、離婚している。
さて、今度は夕食をするために、JR刈谷駅の前にある「サイゼリア」で待ち合わせをした。
私の妹とその娘の薫、そして薫の娘の子の百子であった。
この「サイゼリア」は、彼女らと私がブラジルに行く時に最後に食事をした店である。
昼と同じくイタリア料理であった。
妹は、「ヨガ」を始めていて、私がブラジルに行く前よりも、綺麗な線の体になっていた。
顔も、すっきりとしていた。
百子は、もう六年生になった。
百子はよちよち歩きの頃から、百子のお母さんの薫と一緒に、おふくろの処に良く遊びに来てくれていた。
愛犬のプードルを連れて・・・。
百子が来るとおふくろは、笑顔で百子のするしぐさを優しく見ていた。
その百子は、もう6年生になっている。
この8月には、10日間ほどアトランタにお母さんと一緒に行っている。
「ゴスペル」のサークルに入り、活躍しているのである。
こうして、妹、その娘、またまたその娘と一緒に話していると、隣でおふくろが、笑顔で座っているような・・・。
私にとって、この親子とその孫の百子がいなかったなら、おふくろの晩年は、寂しいものであったと思う。
ありがとう、妹達よ。
おふくろが 笑顔で迎える ちびすけの
無邪気に遊ぶは 遠い想い出
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